ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

換手の仕事を覚えて、私は新宿の牛込電話局で働きました。同じ学校の生徒でも派遣場所は違っていたので、今もクラス会があると「あなたはどこの電話局?」「私は東京無線の工場だったわ」と話題になるんですよ。4月の空襲で自宅が全焼──空襲のお話を、聞かせていただけますか。空襲がひどくなった頃、神田の家には両親と私の3人だけしかいませんでした。長兄は病気療養のため郊外に住んでいて、下の兄2人は出しゅっ征せい、上の姉は義兄の北陸の実家へ、下の姉もご主人の赴任先の中国で暮らしていました。4月13日の空襲では、リヤカーにお布ふ団とんとか食器類、ラジオなどを積み込んで学士会館の裏手まで逃げました。神経痛で思うように足が動かない父がリヤカーの舵かじを取り、私が必死で後ろから押したんです。しばらく学士会館のところにいたのですが、後で合流するといっていた母がなかなか来ない。そのうちトイレにも行きたくなってしまったものだから、私は一度、家に戻ったんです。──お母さんは、家にいらしたのですか。ええ。戻ってきた私の顔を見てびっくりして、「靴なんて脱がなくていいから、早く用を足して逃げなさい!」と怒られました。私は「お母さんも、ここにいたら危ないから一緒に逃げよう」と必死に頼んだのだけれど、母は「私は家を守る」と言って、頑がんとして動いてくれない。でも爆撃の音は近づいてくるし、仕方なく母を置いて、私は家を飛び出したんです。それで神保町の交差点まで来たときに、遠くから何か異様な音が聞こえてきました。あわてて交差点の植え込みにあった防ぼうくうごう空壕へ逃げ込もうとしたら、そこへ爆弾が落ちてきたんです。私は身体ごと吹き飛ばされ、交差点にあった写真屋さんのショーウインドーに叩きつけられました。一瞬気を失って、あっと気がついて起き上がったら、頭から背中から、粉々に砕けたガラスがじゃらじゃらーって落ちてきたのを覚えています。──ケガはなかったのですか。それがね、かすり傷ひとつ負わなかったんですよ。当時は、避難するとき必ず防空頭ず巾きんをかぶっていました。私の頭巾は、一緒に作ってくれた母が「もっと綿を入れなさい、入れなさい」とうるさく言って、ふかふかの座布団みたいに厚ぼったくなっていたんです。学校に持っていくときは恥ずかしかったけれど、その厚ぼったい綿のおかげで助かったのね。それで、何とか起き上がって家の方を見たら、交差点から水道橋にかけて白山通りの左側は煙で何も見えませんでした。──自宅に残ったお母さんは…。とにかく私はいったん父の所まで逃げて、空襲が終わるのを待ちました。早朝にB29が飛び4月13日の空襲時、冨川さん一家はリヤカーに生活道具を積んで学士会館裏手へ避難した(学士会館精養軒提供)勤労奉仕国民勤労報国協力令は、昭和16年11月に公布、同年12月に施行された勅令。14歳以上40歳未満の男子、14歳以上25歳未満の独身女性を対象に勤労報国隊が編成・動員され、無報酬で軍需工場や農家などの勤労に従事した。防空頭巾綿をたっぷり入れた1辺が60センチメートルほどの四角い布団を2つ折りにして縫い合わせ、頭から肩まですっぽり包める頭巾。爆弾の破片などから身を守るため被った。鉄かぶとに比べ軽く、水に浸して被れば火からも安全で、女性や子供には防寒具としても重宝された。43未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記空襲