ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

お鍋を底からすくっても、ヒエとかアワとかコウリャンしか入ってない。お鍋の中に、白いお米が、ぽつんぽつんと浮き沈みしていたのを覚えています。敷地に野菜を育てようと思っても、焦土というのは野菜がちゃんと育たないのね。あるとき母がどこかからサツマイモの苗をもらって植えたけれど、これっぽっちの、人差し指くらいのお芋しかできないんです。普通だったら捨ててしまうような、サツマイモの茎や葉っぱまであく抜きして食べましたよ。──煮炊きするのにも、苦労したのでは。皆さん、そうだったと思いますよ。それで母が、どこをどう思いついたのか、炭た団どんを作って売り始めたんです。あの頃、三崎町に逓ていしん信省しょう(郵便や通信を管かんかつ轄する省庁。後のNTT、日本郵政など)の車庫があって。戦争が激しくなってガソリンがなくなってから、赤い郵便自動車も木炭で走っていたんです。その炭すみ俵だわらをゴザの上でぽんぽんはたくと、炭の粉が落ちるでしょう。母は車庫の人に許可をもらって、炭の粉を集めては荒あら木きだ田という粘土(荒川沿岸の荒木田原に産した壁土用の土)と混ぜて、おだんごにして天日で干して。そうやって炭団を作ったんです。──すごいアイデアですね。それを丸の内や呉服橋の方まで、母と一緒に売りに行きました。1人が買ってくださると、口伝えで評判を聞いた方も集まってくれて。よき合いなのに、初めて聞いた」って。だから原爆のお話もして、「私なんかどうにか生きてこられたのだし、戦後はいい思いもさせてもらったと思う。今もこうして生きていることが嬉うれしいわ」と話したら、電話の向こうでお友達が黙ってしまってね。どうしたのって驚いて聞いたら、「あなたの話を聞いて、泣いちゃったのよ」って。「病み上がりに、いやなことをお聞かせしちゃったわね」と謝りました。サツマイモも育たない焦しょうど土の神田──青山のお家も焼けてしまって、その後はどうなさったのですか。しょうがなくて、また神保町に戻ってきました。あたり一面焼け野原でね、白山通りに立って水道橋の方を見上げると、駅のホームで電車を待っている人が見えたものです。──今では考えられないですね。自宅はすっかり焼けてしまったとお聞きしましたが。鉄筋コンクリート製のボイラー室と石炭小屋だけ、焼け残っていたでしょう。そこへ父が半分焼けたようなトタンや廃材を拾ってきて、床やら屋根を作ってくれて、なんとか寝泊まりできるようになりました。──食べる物は、どうしたのですか。配給が、ときどきあったんですよ。でも「今日は雑ぞうすい炊だから」と言われて並んで待っていたら、配られたのがお味噌汁のようなものでね。錦水湯の看板。現在は自宅に飾ってある46未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集