ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

ページ
52/214

このページは 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 の電子ブックに掲載されている52ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

しだったのが、一気に14人家族へふくらんでしまいました(笑)。──にぎやかになりましたね。とはいえ終戦直後はものが不足していましたから、全員に食べさせるのも一苦労。担かつぎ屋やさんにお米や野菜を持って来てもらうには、代金を払ったうえに、着物を渡して「次もまた持ってきてくれ」と頼むしかなかった。その着物は、戦争中に茨城県の農家を借りて保管していた母のものでした。せっかく戦火をまぬがれたのに、大所帯を養うため、あっという間にタンスは空っぽになってしまいました。──お風呂屋さんは、いつから開業したのですか。父が毎日のように手を入れて、やっと何とか9月半ば頃に商売が始められたと思います。そうしたらもうねえ、お客さんが入って入って。「もう燃料がないから閉めます」と言っても、「水だけでいいから、浴びさせてくれ」って。──冨川さんも、お手伝いをされたのですか。家業ですからね。ただ私が今も心残りに思うのが、学校に戻れなかったことです。終戦までの2年間は、学生だったとはいえ女子挺身隊の仕事でほとんど勉強らしい勉強ができなかった。戦争も終わったのだし、「あと2年間でいいから、学校へ行かせて」と必死で頼んだので嘆き方でしたね。骨箱も一緒に届けてくれたけど、何も入っていないんじゃないかってくらい、軽かった。だからお墓にもおさめずに、ずっと自宅の仏壇の下へ入れておいたんです。戦後20年以上たって、父が亡くなる前に「開けてみてくれ」というので中を見たら、預金通帳が1枚、出てきましたよ。それはまた仏壇の引き出しへしまって、骨箱はお世話になっているお寺の住職さんに頼んで、処分してもらいました。──その下のお兄さんは。昭和21(1946)年3月、ようやく復員してきました。母は「よく帰ってきた」って泣きましたけれど、「そのまま家に入っちゃダメ!」って。玄関でよってたかって身ぐるみはがして、お風呂場へ連れていって頭から洗いました(笑)。着ていた軍服も、すぐにボイラーで燃やしました。──えっ、燃やしちゃったんですか。シラミが大変なんですよ。──お姉さんたちは。中国にいた次女たち一家は、昭和21年5月頃に着の身着のままで戻って来ました。姉は大きなお腹で、子供を背負って。義兄は大きなリュックに生活資材を詰め込んで。命からがら逃げてきたようでした。富山へ疎開していた長女一家も、青山の家が焼けてしまっていたから、6人全員で神田の家に転がり込んできました。終戦までは3人暮らペンを鉄砲に持ち替えることだけは、しないでほしい48未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集