ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

学校がプロペラの工場になって──福地さんは、麹町のご出身なのですか。生まれてから87年間、ずっとこの辺りに住んでいます。空襲(昭和20年5月25日)で焼け出されてから、2~3軒隣の区画に移りましたけれど、番地はずっと一番町です。──戦争当時の家族構成を教えてください。実家のあった場所で理容店を開いていた父と、母。私が長女で、その下にそれぞれ3歳違いで弟が3人いました。小学生だった2番目の弟は、空襲がひどくなってから、三鷹の方へ祖母と疎そ開かいをさせていました。当時、「竹やぶにいると爆弾が当たらない」という話があって──本当かどうか、知りませんよ(笑)──竹やぶの中の小さな家を買って、弟はそこから三鷹の小学校に通っていたんです。──終戦のとき、福地さんは学生だったのですか。いいえ、その前の年に女学校を卒業し、「自宅から通える職場にしなさい」と父に言われて麹町区役所に勤めていました。麹町の出張所を管かんかつ轄する仕事でしたので、お付き合いがあるのもご近所の知った方ばかりで、心強かったのを覚えています。──戦時中の学校生活について教えてください。私は昭和16(1941)年に尋じん常じょう小学校を卒業しましたが、当時は小学校でも、なぎなたの授業がありましたよ。バケツリレーの練習もしました。それから女学校に進んだけれど、英語の授業はなくなっていました。──英語が習えなかったんですか?敵てきせい性語ごでしたからね。英語だけでなく、ちゃんとした授業があったのは2年生の頃までだったと思います。その後は学校が工場になってし母が空襲の時にたった1つ持ち出した〝枕〟の中身町で理容店を営む家の長女に生まれた福地貞子さん(87歳)。勤きんろうどういん労動員に明け暮れた女学校時代、空襲が激しくなった頃の生活、また麹町、神田地域が大きな被害に遭あった昭和20(1945)年5月の空襲の様子などをお話しいただきました。福地貞子ふくちさだこ一番町インタビュアー三輪田颯真(中学1年生)吉岡さくら(高校2年生)50未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集