ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

まって、最後の1年間はまったく勉強できませんでした。──学校が、工場に?立川にある飛行機の工場へ勤労動員される予定が、通うのは遠いということで、学校に部品を運んで作業をすることになったのです。詳しいことは分からないけれど、プロペラの一部だと教わりました。つまりあなた方がふだん勉強しているような教室の机の上で、プロペラの部品をせっせと組み立てていたんですよ。女学校の制服を着て(笑)。それが授業だったの。──その頃の夢とか、将来なってみたい職業はありましたか。ありません。夢なんてあっても、そうはなれないんですもの。考えたってしょうがないと思っていたんじゃないでしょうか。毎日毎日、空襲に遭ったら火を消すためのバケツリレーや、なぎなたで敵を倒す訓練ばかり。戦争のことしか頭にありませんでしたから。麹町から四ツ谷までが焼け野原に──空襲のことを、教えてください。空襲がひどくなってきたのは、昭和19(1944)年の終わり頃からです。麹町1丁目の交差点あたりに墜ついらく落したB29を見に行ったことがありますが、1区画分が覆おおわれるほど大きかったという記憶があります。──その大きな機体に、たくさんの爆弾を積んでいたのですね。空襲は本当に恐ろしかったですよ。いつ空襲警報が鳴るか分からないので、すぐ逃げられるように毎晩、服を着たまま布ふ団とんに入っていました。終戦までの2年間ほどは、パジャマを着て寝たことがなかったの。「どこどこの方面からB29が来る」という警報を聞いたら、荷物を持って逃げるのです。昭和20年の下町大空襲では、翌日に深川の方に住んでいた女学校のお友達が登校しないので、「どうしたのかしら」と話していたら、亡くなっていたことを後で知りました。──お知り合いも、亡くなっているのですね。5月25日の空襲では、私たち家族も命からがら逃げました。私は中学生の弟と一緒に、一番町の自宅からイギリス大使館の方へ逃げたのですが、近この衛えの兵隊さんに「ここは危ないから通れない」と止められてしまって。塀へいを登れば逃げられるというので、そこへ荷物を置いて必死で竹橋の方まで逃げました。走っている途中でも、目の前に焼しょう夷い弾だんがどんどん落ちてきて、それはもう怖かったですよ。空襲が終わったというサイレンを聞いて、一番町の方へ戻りました。イギリス大使館の横まで来たら、四ツ谷の方までぜんぶ焼け野原になって、丸見えになっていたのを覚えています。──何にも、なくなっちゃったんですか。当時は木造の家が多かったですからね。──塀のところに置いていた荷物は?5月25日の空襲時、福地さんはイギリス大使館の方へ避難した焼夷弾油脂または黄燐(おうりん)を使った強燃焼性の「爆弾」。数10本の小爆弾を詰めた親爆弾が目標の空中で爆発すると小爆弾が飛び散り、火災を発生させ、水を注げば炎が大きくなる厄介もの。火たたき、防火用水など役に立たなかった。51未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記空襲