ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

──その頃から空襲はあったのですか。られないお子さんもいて、どうやって守るかをていました。はり保護者が迎えに来ます。でも親御さんが来液型を縫ぬい付け、防空頭ず巾きんもいつも肩からかけらいまでかかります。また警けい戒かい警けい報ほうが鳴るとやた。胸には住所氏名、生年月日、保護者名、血んぺを履はき、素足を出さないようにしていましした1が年、生出は迎え10時の半保く護ら者いがに遅下れ校たさりせするる決とま昼りくでた。児童は空襲に備えて膝ひざ上までの黒靴下やもね。国民学校では下のほうの学年を担任しまし──子供たちを預かる責任も大きかったのですることになりました。聞く空襲警報でした。翌年1月から付属国民学校に教諭として勤務す上がった頃、サイレンが鳴りました。はじめて重大な時じ局きょくということでした。4年生だった昭和卒業16(1が9124月1に)早年まにりは、、パラパラと落としていました。遠くで黒い煙がないっ」「皆伏せろっ」と。機体は黒い物体を校(現在のお茶の水女子大学)で勉強していまメリカの飛行機だと分かって、教員たちが「危戦争が始まるまで、私は東京女子高等師し範はん学見えました。けれども機体に日の丸がない。アたかお聞かせください。です。飛行帽と飛行眼めが鏡ねをつけた操縦士の顔も──戦争の間は、どういう生活を送ってこられで、子供たちははしゃいで校庭に出ていったん戦争勃ぼっ発ぱつと同時に教員に正午最近初くので空す襲。はす昭ご和く大17(1942)年4月きな飛行機が来たもの18日ていくのを目の当たりにしたのは何より辛つらい経験でした。教育一筋に生きてきた人生の中、学校が空襲で焼け落ち年まで校長・理事長を務めてきた三輪田芳靖国神社に隣接する三み輪田わだ学がく園えんで、平成子さ11(ん1(994 9歳)9。)大切な学校は空襲で焼けたみわだよしこ三輪田芳子九段北インタビュアー富山愛茉美(大学3年生)千野彩佳(高校3年生)西山侑里(高校2年生)未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集54