ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

いつも考えていました。校舎1階の廊下は、床板を一部開けて地下に通じる階段を作ってあり、その下に皆を移動させていました。──児童が集しゅうだん団疎そ開かいした先では、松林で授業をしたそうですね。昭和19(1944)年8月から、久くめ米川がわ郊こう外がい園えんというところに集団疎開しました。ここは自然観察の授業に使っていた学校農園で、生活するためのところではありません。農具を入れていた建物に床と畳を敷いて3・4年生の宿舎にし、上級生は近くの農家に分宿しました。私は4年生女子の担任で、一緒に生活しました。教室ももちろんありませんので、松林に机やベンチ、黒板を持ち出して、そこで授業や食事をするのです。体操や音楽は近くの原っぱ。雨が降ると寝泊まりする場所でお話会などをしていました。授業後は、3・4年生は燃料の枯かれ枝えだを拾い、5・6年生は防ぼうくうごう空壕を掘る手伝いをしました。──そこでの食事はどうしていたのですか。東京の真ん中よりも食料は手に入りやすく、そんなに困りませんでした。もともと農園でしたし、まわりも普通の農家ばかりなので、そこに材料を買いに行って作っていました。──子供さんたちはどんな様子でしたか。2年生くらいの小さい子もいましたが、親御さんから離れても皆しっかりしていました。ただ、たまにお母さんが会いにきたりする子がいると、他の子も自分のお母さんが恋しくなってしばらく不機嫌になったりしましたが。私がそこで過ごしたのは1カ月ほどです。結婚を機に退職願いを出しており、9月30日付で許可されて久米川郊外園を去りました。学園は翌年、富山県に再疎開しています。学校と家は空襲で灰かいじん塵に──それから三輪田高等女学校の教諭になられたのですか。校長を務めていた義ぎふ父の勧めでした。当時は校内で授業を受けているのは1・2年生だけで、3年生以上は勤きんろうどういん労動員で都内の軍ぐんじゅ需工こう場じょうに分散して通っていました。私の仕事は1・2年生の家庭科の授業と、生徒が軽作業をする学校工場の監督、夜間の宿直、警戒警報の際に生徒を無事に帰宅させたり校舎を見回ったりすることなどです。家は靖国神社の隣の学校敷地内でした。夫は軍需会社で働き、警けい備び召しょうしゅう集の時には在ざい郷ごう軍ぐんじん人として駆かり出されていました。──昭和20( 1945)年3月10日の空襲に遭あわれた時は、どういう状況でしたか。9日夜の警戒警報で校舎の防火扉を確認し、防空服装で待機していました。夫は警備召集に出ていました。12時頃に空襲警報が鳴り、義父母と庭の防空壕に飛び込むと、間もなく大きな爆発音がしました。隣家の木下病院という産婦人科に焼しょう夷い弾だんが落ち、燃え上がっていったのです。うちにも火の粉が来ましたが、火たたきを国民学校明治から続いた小学校が昭和16年4月1日から「国民学校」と改称された。義務教育の年限を2年延ばして初等科6年、高等科2年とし、教育内容も体育などを中心に国家主義的な色彩を強め、生徒への体罰は珍しくなかった。55未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記空襲