ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

水に浸ひたしては消して回りました。病院の職員や入院患者さんは非常用に作っておいたくぐり戸を通って校内に避難されてきました。うちは幸い燃えなかったので、避難してきた方たちはしばらく学校の雨天体操場で生活されました。3月で寒い時期でしたが、布ふ団とんや家具も持ってこられて。空襲後に私たちが住んでいた離れの2階から南の方角を見ると、一いも口あらい坂ざかの向こうまで焼け、残っているのはコンクリートの九段電話局と、遠くに見える東京家政学院の講堂だけでした。──大変だったのは4月13日の空襲ですね。この日は夫も休暇で警備召集隊から戻っていて、鎌倉に住んでいる義姉と小学生の姪めい2人も泊まりに来ていました。警報のサイレンで目が覚めると、物ものすご凄い爆音で飛行機数機が頭上を通りました。最初は防空壕に入りましたが、玄関の門の方に火のついたものがドスンドスンと落ち、メラメラ燃えていきます。母屋も燃え、校舎に行くとこちらも燃えはじめている。「ここにいると危ない」と、夫や義父母と靖国神社の方に走りました。神社の相す撲もう場に門があって、押してみたらその日は偶然開いたんです。それで中に入り、相撲場の見物席から、校舎が燃えるのをなすすべもなく見ているしかありませんでした。──その時はどんなお気持ちでしたか。ものも言えない感じです。ああ焼けてしまう…と茫ぼうぜん然と見ているだけ。どんどん火が回り、学校の体育館や講堂まで燃え崩れていくのを、神社の欅けやきの幹に寄りかかって見ているしかないんです。創立者の三輪田眞佐子と義父の42年間の努力が、わずか2時間ほどで灰になっていきました。明るくなって戻ると、離れがあったあたりに愛用のピアノの残ざんがい骸があり、とても悲しかったのを覚えています。爆撃を避けながら鎌倉から通勤──空襲の時はどんなものを持って逃げたのですか。警報が鳴ると防空壕に入ると決めてあり、最低限必要なものは壕の中に置いてあります。自分で必要なものは肩に背負って入ります。狭いのでそんなにたくさんは持っていけません。大事なものだけ。──大事なものとは。逃げた先で生活するための証明になるようなものですね。他はわずかです。肩から下げられる程度ですから。後は自分の身を守るだけです。けれど、そういう時代でも隙すきを見ている人はいます。物がない時代ですから。何とか焼けずに残っていた衣類などを入れた手提げカバンなどを物かげに隠しておいたのに、わずかの間、その場を離れた隙に盗とられたこともあります。──周りの人たちは空襲警報が鳴るとどんな感じでしたか。パニックになるというより、それが当たり前空襲警報・警戒警報サイレンやラジオ放送で伝達された。空襲警報は6秒間10回の吹鳴反復。警戒警報は数10秒間の吹鳴。ラジオでは「東部軍管区情報、東京地区、空襲警報発令…」と番組に割り込んできた。「空襲警報発令!」と警防団員が大声で叫んで回っていた。56未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集