ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

鎌倉は東京を焼け出されて移り住んでいる人が多く、通勤電車はいつも満員でした。東京に通っている小学生もいて、甥や姪もそうでした。──東京はずいぶん変わっていましたか。私の近くは残っている建物は少なかったですね。木造が多かったから。どこに何があったか思い出すのも難しいほどでした。学校の仮校舎では、ノートも机もありませんでしたから、白百合学園など焼けなかった学校から譲っていただいて使っていました。──戦争当時の物で、今もお持ちの品はありますか。区内の家にあったものは、ほとんど焼けてしまいましたので、あまり残っていませんね。鎌倉での疎開の際に使っていた食器は今でもうちで使っています。あと残っているといえば、大事なものは肩かけカバンに入れるという癖でしょうか。──人生の中で大切にしていることはありますか。大変な空襲に遭いながらも逃げ延びてこられたのは何よりもありがたいこと。仕事がいちばん大事だと思って暮らしてきたのは戦中戦後も変わりませんが、毎日が必死の思いでした。当時は「楽しいこと」とか「自由」や「平和」ということを考える余裕すらありませんでした。今の若い人には「自由」や「平和」について考えることができる幸せを、大切に暮らしていってほしいと思っています。列車に機き銃じゅう掃そう射しゃをすることもありました。列車が止まっていると必ず狙われますから、とにかく急いで離れなきゃいけない。空襲警報が鳴ると電車から線路に飛び降りました。走って木の陰や草の陰に隠れ、飛行機がいなくなったら戻ってくるんです。すぐそばに爆弾が落ちたこともあります。爆撃が遠ざかると、また列車に戻るのですが、飛び降りるよりも戻るのが大変で。下から支えてもらったり、足を持ってもらってやっとのことです。通勤する日々の中で、何回かこんなことがありました。今思い出しても、よくあんなことができたなと思いますね。今も残る当時の癖くせ──終戦はどこで迎え、どう感じましたか。鎌倉で、義父母たちと玉ぎょくおん音放ほうそう送を聞きました。ああやっと終わったという感じでしたね。毎日空襲におびえながら東京に通っていて、やっと普通に通勤できると思いました。それまではどこで空襲に遭うか分かりませんでしたから。──その後もしばらく鎌倉に。昭和25(1950)年まで鎌倉にいました。昭和20(1945)年4月になると甥おいや姪めいが疎開先から戻り、義兄も南方から無事帰国し、多い時は17人が暮らしていました。食べ物は東京よりは手に入りやすかったんですよ。庭では義父母がカボチャを育てていました。でも17人もいるとお手伝いさんは大変だったと思います。写真左から、西山さん、千野さん、三輪田さん、富山さん58未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集