ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

誌)を見せてもらうのが、とても楽しみでした。──お父さまは、どんなお仕事をなさっていたのでしょう。父は明治の生まれなのですが、まだ日本の方が皆さん和服を着ているときに「これからは洋服の時代だ」と考えて、東京で衣服の仕事に就きました。はじめはトンビという男の方が着るマントを仕立てる店で修業をして、独立して牛込に小売店と自宅を持ったそうですが、そこで関東大震災に遭あって自宅をなくし、神田へビルを建ててからは、婦人服、子供服などの卸おろしをしました。その後、昭和4(1929)年に『東京婦人子供服製造卸組合』を設立して、繊せん維い工場に洋服用の広幅の生地を依頼し、卸おろしぎょう業を手がけるようになったのです。戦前には、麻や木綿、絹、ウールなどの天然繊維を扱って、戦後に化学繊維のナイロンがアメリカから衣服素材として生まれ始めました。紺色に染めたスキーズボンで通学──学校は、どちらへ通っていらしたのですか。両親は、「女の子を電車で通学させては危ない」という考え方だったんですね(笑)。それで歩いて通える白百合(白百合高等女学校附属小学校。現・白百合学園幼稚園)に入りました。──戦争中の学校生活では、どのようなことが印象に残っていますか。戦争が激しくなってきた昭和17(1942)年からですが、生徒の安全確保や、国からの通達を伝えやすくするために、それぞれの学校へ軍人さんが配備されることになったのです。私たちの学校はミッション系の女子校ですので、生徒はもちろん先生方も女性ばかりでしたから、軍人さんとはいえ男の方が学園の中にいることには、とてもびっくりしましたね。──制服などに変化はあったのでしょうか。空襲にたびたび遭うようになってからは、制服のスカートが禁止になりました。うちには姉たちが使った赤いスキーのズボンがあったので、それを紺色に染めてはいていきました。──色の指定もあったのですか?いえ、それはないけれど(笑)。でも赤だの黄色だのって華やかな色を着てはいけないような、そういう世の中だったのね。ですから私たちも自然と、紺だの黒だの、地味な色しか身につけませんでした。──他にも、着る物の決まりはありましたか。服の胸に白い布を縫い付けて、そこへ名前と、血液型が分かる方は血液型を書いていました。空襲などでケガをしたり亡くなったとき、身元が分かるようにね。昭和20( 1945)年3月の空襲のときは、隅田川に飛び込んで亡くなった白百合のお友達が、その名札で分かったという話もありました…。──ご自宅にも、軍人さんが泊まっていらしたそうですね。今の武道館があるところに、当時は近この衛え連れんたい隊女学校時代の岡村さん61未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記疎開