ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

じめなどはありませんでしたか。地元の小学校に編入しました。教科書は国定教科書で日本中同じですから問題ありません。いじめも多少ありましたよ。というのも、都会の子は機き敏びんというか、すばしこいもんだから、授業中でもすぐにパッと手を挙げたりする。そうすると目に付くんですよ(笑)。生意気に映ったんでしょうね。──中学校に上がるときはどうしたのですか。田舎の中学にそのまま進みました。当時、義務教育は小学校までですから、県立の旧制中学校に試験を受けて入りました。試験は口頭試験だけで筆記試験はなかったです。試験の内容は、一応日本はまだ勝っているということだったから、占領地の名前などを挙げさせられたりしましたね。──疎開先での食糧事情はどのようなものでしたか。父親の実家が農家でしたから、それほどひどい状態ではなかったです。私の疎開した東武東上線の沿線は、地形上あまり水田がないんですよ。たいてい二に毛もうさく作で、春は麦、秋は米を収穫するという組み合わせが多い。その頃は、とにかく採れるものは何でも栽培しました。畑には春は麦とジャガイモ、秋はサツマイモと、「おかぼ」といって水田でなくても栽培できる陸稲を作っていました。お金になる米をできるだけ売って、自分たちが食べるのは麦。ですから、だいたい麦ご飯です。あとは、小麦が採れるからうどんですね。サツマイモの産地でもありましたから、サツマイモもよく食べました。──もう食べたくないものはありますか。しいていえば…小麦粉が配給になるんですが、精製の仕方が悪い物がくると、うどんを作っても汁に溶け出してしまうから、すいとんにでもしないと食べられない。すいとんでも、温かいうちはいいのですが、冷めてくるとドロドロで、のりを食べているような感じでした。──疎開先の農家に、食べ物を求めてやって来る人はいましたか。地元の人でそういう人はいなかったですね。農家はみんな、米や麦、芋を供きょうしゅつ出させられるんですが、自家用の米は確保してよいことになっていましたから。戦争中、農家は優遇されていたんですよ。街の人よりもひどい食糧事情ではなかったです。埼玉県がある程度、作物の採れるところだったからかもしれませんが。──都会の人たちはやって来ましたか。来ていましたね。買ったり、着物などと物々交換したりしていました。食料品はみんな統とうせい制がかかっていたので、街から来る人はそれを仕入れて内緒で売るんです。みんなリュックサックで山のように積んで電車に乗るから、床が下がるほどでした。当然、統制品ですから、警察が途中の駅で一斉取り締まりをやる。いきなり電車に乗ってきて「故障のため車両交換します」と言って、荷物を下ろして全部没収するんです。東武東上線の場合だと、川越駅がちょうど車70未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集