ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

庫で、そこで取り上げるわけです。そうすると、地元の食糧事務所にそれが回る。川越市の食糧事務所は非常に食糧豊富だという噂うわさがありました(笑)。──疎開先ではどういう生活でしたか。疎開したのは小学6年生の2学期からですが、田舎の小学校は田植えと稲刈りのときは、手伝いのためにお休みになるんです。父親の実家は農家だったから、放課後は手伝っていましたし、他の農家に行って稲刈りなどの農作業もしていました。──都会育ちとしてはどうでしたか。農作業はもちろん、地元の人たちとの付き合いもある。今までの暮らしと全然違う世界がそこにはありました。その頃は辛つらかったけれど、いい経験をしたなと思います。──中学校での生活はどうでしたか。中学校に入ると、私の1学年上の先輩たちはもう勤きんろうどういん労動員に駆かり出されていました。私が行ったのは埼玉県立松山中学校ですが、すぐ近くにディーゼル機器の工場があって、1年生の2学期から工場へ通うんです。朝からですが、一応先生がいて、授業そのものはあったらしいです。2学期まで戦争が続いていたら、私も工場へ行くことになっていました。たしか、夏休みは1週間しかなく、始まりが遅かった。2学期から勤労動員で授業時間が短くなるからだと思うんですが、ギリギリまで授業をしていました。その1週間の夏休み中に8月15日を迎えて、結局8月末まで夏休みになったと記憶しています。──中学校では軍ぐん事じ教きょう練れんはありましたか。よく軍事教官にいじめられたという話が出ますが、私がいた学校はそんなことはありませんでした。もちろん、竹たけやり槍や木の棒で訓練はしていましたが、軍事教官をそんなに怖いと思わなかった。たまたまいい教官だったからかもしれません。学校によってかなり違いはありますね。教官から「お前ら、アメリカ兵が落らっ下か傘さんで降りてきたらどうする」と聞かれ、「竹槍で戦います!」と答えたら、その教官が感激して。たいてい中学校の先生は生徒と一緒にお弁当を食べないんですが、教官は「感激した!」と教員室から弁当とやかんをぶら下げてきて、一緒に昼食をとったこともありました。その教官は、戦争が終わったら「マッカーサーに嫌われるから、おれは先生を辞める」と言って農家になりました。よく映画などで軍事教官にいじめられるシーンが出ますが、全部が全部そういうわけではないと思います。──空襲の恐怖はありましたか。私自身は疎開していたので、東京の空襲は経験していません。ただ、疎開先でも機き銃じゅう掃そう射しゃがありました。空襲警報解除が出て、みんな防ぼうくうごう空壕から出てきたところだったので、いきなり頭の上で機関銃の音がしてびっくりしました。狙われたのは工場で、そこで働いていた1学年上の先輩2人が怪けが我をし、亡くなった工員富士山を背景に揃って通学(永田町国民学校/山口光弘さん提供)軍事教官学校での軍事教練は大正14年から正課とされたが、昭和10年には中学校以上に将校が配属された。軍刀に革長靴姿で、学生・生徒に銃剣術や銃操作を訓練、指導した。71未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記疎開