ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

ページ
76/214

このページは 未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集 の電子ブックに掲載されている76ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

宮城防衛のために陣地を作ったんです。うちの玄関の右側は少し高くなっていますが、前の道まで同じ高さになっていて、そこに東とうごうざか郷坂教会がありました。関東大震災のときにレンガ造りの建物が焼け落ちたんですが、残っていた土台に穴を掘って高射砲を持ち込んでいました。終戦後、自宅に戻ってみるとその台座が残っていて、うちの庭にも塹ざんごう壕が掘られていました。空襲後、軍隊が入り、すぐに電線を引いたおかげで、電気は使えました。焼け残った樹木を電信柱の代わりにして、低い位置に電線を張り巡らせていました。ただし、個人の家の前までは電線を引いてくれますが、あとはそのまま。被ひ覆ふくせん線ではなく裸線なので、けっこう危なかったですね。──お父さまが隣組の組長だったということですが、戦争中、組長ならではの苦労はあったのでしょうか。父親は食料品の配給を担当していました。ただ、肉の配給があると、鶏、豚、牛と全部持ってこられる。それを住民に配るのですが、最初の頃はそれほどみんな逼ひっぱく迫していないから、いいものを欲しがるんです。多少見栄もあり、「何にしますか」と聞くと、「お肉」と。このあたりだと「お肉=牛肉」なんです。分け方をどうするか困って、肉屋さんにどの家がどのお肉を使っているかを聞きながら配ったりしたこともあったと言っていました。──配給する側も大変ですね。もいると聞いています。終戦の前日にも熊くまがや谷が空襲を受けました。私が住んでいた場所から山を隔へだてたらすぐ熊谷なんですが、山の裏側が真っ赤になって。その頃しきりに、米軍が山に焼しょういだん夷弾を落として山火事を起こすという噂が流れていたんです。てっきりそれが始まったのかと思って怖かったですね。──戦争が終わったときは、どのような気持ちでしたか。もちろん、悔くやしいという気持ちはありました。ただ、これで電気を普通につけて明るくできるんだ、もう何も心配しなくていいんだと思いました。空襲で焼けた自宅と終戦後の生活──東京の空襲で四番町の自宅はどうなりましたか。四番町のあたりは2回やられています。昭和20年3月10日は神田から九段の上あたりまで、5月25日に残りがやられ、自宅も完全に焼けました。うちは庭に防空壕を掘っていましたが、商店街には掘る場所がない。だからみんな家の床下に防空壕を掘っていました。ただし、そこに逃げ込んだために焼け死んだ人もこのあたりにはいました。空襲後、すぐに陸軍がやってきて、帝都防衛、河口湖で貝採りをして食料を補給(山口光弘さん提供)72未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集