ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

かったのですか。5年くらいです。昭和25( 1950)年に完全にではないけれど、一応まともな家になりました。軍隊が作った防空壕の廃材も使いましたね。戦争中に強制疎開というのがあって、大切な施設の近くにある家や延焼しそうな家は強制的に壊されたんです。その廃材がそこらへんにたくさん保管してあって、その材料をもらってきたりしていました。昭和25年に私は疎開先から完全に四番町へ戻ってきましたが、その頃、ちょうど朝鮮戦争が始まったんです。また空襲が始まるのではないかと両親が心配していたのを覚えています。──最後に、戦後70年を迎えて、これからの私たちがどのようなことを考え、行動していくべきか、メッセージをお願いします。国を守ることは大事ですし、そういう権限が国にはあると思いますが、ただ威圧的に物事を決めつけるのでは間違った方向に進んでいきます。みんな他人の話をよく聞いて仲良くやっていくことが大切だと思います。町会長をしていますと、いろいろな町会の話を聞く機会があります。町内には新しい人たちもたくさん増えています。新しい人たちを排除することなく、一緒になって、うまくコミュニケーションが取れる町づくりができたらと思っています。物流が悪かったですから。東郷坂を上がりきった北ほくしんしゃ進社という印刷会社のあったところはもともと牛乳屋で、自分のところで精製していたんです。戦争中に統制になって明治乳業の販売店になったのですが、牛乳がうまく流通していないものだから余ってしまって。3月の九段の空襲のときには、持って行き場のない牛乳を消火に使ったと聞いています。とにかく戦争末期は、物の流れが偏かたよっていました。あるところにはありましたが、流通しない。ガソリンがないからトラックで運うんぱん搬できないんですね。それから、このあたりはお屋敷が多く、いつも門が閉まっていて、防空演習をするときに門を開けてくれない。協力してくれないんです。「門を開けろ」と言うと「旦だん那なさまがお留守で」と返事がある。「中に爆弾が落ちたらそんなことは言ってはいられないよ!」と言って開けさせたそうです。──自宅が焼けたとのことですが、終戦後はどうしたのですか。最初は防空壕で暮らしていました。というのも、うちの敷地は兵隊が陣じん地ち造ぞうえい営のため、塹ざんごう壕を掘り、半地下の兵へいしゃ舎を作っていたんです。終戦後、兵隊がそのまま放り出して帰ったので、しばらくそこを使っていました。けっこう広かったですね。どこからか木材を持ってきて屋根を作っていましたので、普通よりもずっとしっかりした防空壕でした。──完全に家が復旧するまで、どのくらいか写真左から、長嶋さん、松崎さん、杉田さん、安田さん73未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記疎開