ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

ものです。東京都になる前の東京市は人口が増徴兵され、兵隊に駆かり出されていきました。売していました。特に売れたのは風呂屋関係の兵隊もたくさん必要となり、若い者がどんどん戦前は、鉄板や鉄の丸棒など、鉄の材料を販のですか。がき始まましりた、だ。ん昭だ和ん12(と1937)状況も変わ年っにてはき日ま中し戦た争。──お父さんはどのようなご商売をされていた略りゃくした年です。その頃から日本が強くなってい規き模ぼになりました。私の生まれた昭和7年は、日本が満州を侵しん高崎市●鈴木さんの疎開先(千代田区岩本町から群馬県高崎市へ)なってから土地を少しずつ買い足して、現在のしょうか。商売を再開し、会社を設立しました。私の代に──当時の日本はどのような状況だったので岩本町店は空襲で焼けましたが、終戦後に同じ場所でンに扱っていました。目(当時は東紺屋町)で商売をしていました。お釜やカラン、蛇口などの材料となる鉄をメイ父親が戦前からずっと千代田区の岩本町2丁ランからお湯や水を出すわけです。うちはその約100㎞まいはずっと北区の東十条です。あり、そこでお湯を沸かしてパイプで運び、カ私は昭和7(1932)年生まれで83歳、住がありました。風呂屋の奥には薪まきで焚たくお釜かまがさい。の風呂屋で1日2000?2500人の利用者──鈴木さんの年齢とお住まいをお聞かせくだましたから、風呂屋もどんどんできます。1軒徴ちょ兵うへいで店員が次々に出しゅっ征せいしていったには内風呂はなく、風呂屋(銭湯)に通っていえ続けていました。その当時、東京の一般家庭がいました。当時の店の様子や、疎開先での生活についてお話をうか集団疎そ開かいし、中学受験で東京へ戻ってきて空襲に遭そう遇ぐう。長です。小学校6年生のときに群馬県高崎市の長ちょう純じゅん寺じにすずきえいいち鈴木榮一岩本町バルブなどを扱う「鈴木治じ作さく株式会社」の代表取締役会で商売を始め、の鈴木榮一さん(ちに83歳会)社はを、父親が興おこし、現在はステンレス製東ひがし紺こん屋や町ちょう(現・岩本町)地元の人たちの思いやりに助けられた学童疎開インタビュアー泉政秀(区内在勤者)横山嶺州多(中学3年生)未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集74