ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

ら生き延びたのです。──空襲はいつ頃から始まったのでしょうか。東京で最初に空襲があったのは、昭和17年4月、私が小学校4年生のときでした。飛行機が来てから空襲警報が鳴りました。学校の上を飛行機が飛んでいき、板橋の方に爆弾を落としました。──そのとき鈴木さんは学校にいたのですか。学校にいました。ちょうどお昼頃だったので休み時間中で、教室の窓から飛行機を見ていました。飛行機が通り過ぎてから先生に「みんな校庭に出ろ!」と怒どな鳴られて出たのですが、防ぼうくうごう空壕があるわけでもないし、避ひ難なん訓練などもまったく行っていなかったので、どこへ逃げたらよいのか分かりませんでした。昭和19(1944)年にサイパン島が陥おちたときに、これからは東京も空襲されるということで、東京の子供たちを地方へ避難させようとしたんです。──それで学童疎開が始まったのですね。そうです。終戦の1年前ですね。サイパン島が陥おちたのが7月ですから、それから1カ月くらいで、田舎に親しんせき戚のある人は縁えん故こ疎開、いない人は群馬県や長野県、山形県などに集団疎開と、とにかく小学校3年生以上を東京から避難させようとしたわけです。──小学3年生以下の子供はどうしたのですか。小学1・2年生は東京にいましたが、田舎の親戚に母親と一緒に行ったり預けたりと、できるだけ縁故疎開するよう勧められました。榛はる名な山さんのふもとのお寺に疎開する──鈴木さんはどこへ集団疎開したのですか。私の小学校は王子区(現・北区)の稲田国民学校で、8月末に3年生から6年生までが群馬県に疎開しました。温泉旅館へ行くケースが多かったですが、うちの小学校は、校長がぐずぐずしている間にそういうところがなくなってしまったんです。しょうがなくて、榛名山のふもとの4つのお寺に、60人くらいずつ分かれて疎開することになりました。私は高崎市の長純寺というお寺でした。8月31日の朝6時に小学校の校庭に集まり、赤羽駅まで歩いて行き、そこで両親と別れました。それから汽車に乗り、高崎駅で木炭で動く乗合自動車に乗り換えて疎開先へと向かいました。──疎開が決まったときは不安でしたか。よその学校は、学年別に分かれて疎開したところも多かったようですが、私の学校は地区で分かれたため、弟も一緒でした。兄弟姉妹が一緒という人がけっこういましたので、そんなに不安はなかったですね。それでも、最初は遠足気分でニコニコして行きましたが、お寺に着いて夜になると泣いている子もいました。学童疎開は先生も一緒に行くのですが、拒否する先生もけっこう多かったのではないでしょ長純寺の学童疎開石碑76未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集