ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

うか。1つのお寺に男の先生が1人、女の先生が1人、合計2人くらいしか同行しません。それで60人の生徒の面倒を見るのだから大変です。私たちの先生はとてもよく世話をしてくれました。──疎開先での生活を教えていただけますか。私たちはとても恵まれていたと思います。お寺の和お尚しょうさんが本当に一生懸命努力してくれました。また、村の助役さんはじめ、村の人たちもとても親切にしてくれました。けれども、急に疎開先に決まったものだから、お寺も受け入れ態勢がまだできておらず、行ったらお風呂がありません。トイレは1つありましたが、1つではどうしようもない。トイレは増築中で、臨時のトイレは本堂の前に穴を掘ってむしろで囲ってありました。とにかく、お風呂がないのがいちばん困りました。──お風呂はどうされたのでしょうか。和尚さんが村の人たちに話をしてくれて、お風呂が完成するまでは、民家1軒に3?4人が「もらい風呂」をしに行きました。毎日は無理ですから、1日おきくらいです。当時の農家のお風呂は木でできた小判型のものです。私たちが行ったときはちょうど8月でしたから、最初は家の外の土間に出して風呂を焚いてくれました。──寂しがる子はいなかったのでしょうか。私は上級生ですから、下級生の面倒もよく見ました。私のお寺では落らく伍ご者しゃはいなかったけれど、よそのお寺では東京まで逃げ帰った者もいたそうです。そうなると、手紙を検けんえつ閲するなど管理も厳しくなります。もちろん最初の頃は、親が来てはいけない、来ても会わせないと面会に関してはうるさかったです。会えば帰りたくなるでしょう。9月は誰も面会に来ませんでした。10月半ば頃からやっと解除になって、母親たちが面会に来るようになりました。疎開した年の12月頃からB29が飛んでくるようになり、東京に爆弾が落とされたという話を聞くようになりました。──疎開先の食事はどのようなものでしたか。私の小学校の中でも、私が行ったお寺がいちばん良かったです。田んぼや畑も多く、農業が主体の村でしたから。村の助役さんがいろいろと尽じん力りょくしてくださり、ほとんどお米のご飯でした。最初に学校で申請した人数よりも、実際に疎開した人数が減っていたのですが、その分の配給が減らされていなかったのもあったようです。食事にはカレーライスも出ました。もっともカレーライスといっても、肉は入っていません。群馬はコンニャクの産地ですから、肉のかわりにコンニャクが入っていました。うどんもよく食べましたね。乾かんめん麺を折って炒いためて食べたりしていました。2キロメートル先に牧場があり、当番の男子は山道を歩いて配給の牛乳を引き取りに行きました。大だいはち八車ぐるまを引いて農協まで野菜などを引き取りに行くのも男子の仕事でした。学童疎開集団疎開の第1陣が東京を離れたのは昭和19年8月4日。全国6都道府県で小学3?6年生40万人以上が集団または縁故を頼って農村地帯に疎開した。食料不足に加え、ノミ・シラミに悩まされた学童が多かったという。77未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記疎開