ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

──授業も受けていたのでしょうか。最初の頃は授業はなく、しばらくしてから隣となり町まちの小学校を借りてときどき授業を受けました。でも、そもそも先生がいませんから、勉強はそんなにしなかったですね。農家の手伝いはよくやっていました。最初、温泉地に疎開した小学校は、温泉に何回も入れるだろうからうらやましいと思いましたが、終戦後、彼らに当時の話を聞くと、お風呂は寝る前に1回しか入れないし、特に食べ物には相当苦労していたようでした。私たちは食べ物もそうですが、疎開先の人たちにとてもよくしていただき、疎開児童としてはかなり恵まれていました。終戦後は、長純寺に疎開していた者たちで「長純寺会」を作り、今でも交流が続いています。疎開から東京に戻って空襲を経験──鈴木さんは終戦まで疎開をされていたのでしょうか。旧制中学校の受験のために、翌年3月7日に東京に帰ってきました。帰ってきてすぐに東京大空襲がありました。あのときは驚きました。──鈴木さんはこのときはどうしていたのですか。東十条の家にいました。ずっと見ていました。この空襲があってから、防ぼう火か帯たいを作るよう指示されました。環状7号線に予定地があったのですが、燃え広がらないようにまわりの多くの家空襲で焼けたお店の金庫の中に保管されていた貨幣78未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集