ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

が壊こわされました。その範囲にうちの石いしぐら蔵もありましたが、木造ではなかったため、壊されずにすみました。──東十条は空襲を受けなかったのでしょうか。4月13日?14日にかけて空襲がありました。自転車やリヤカーを石蔵に入れて逃げました。それから8月10日の朝にも空襲がありました。このときは板橋区や王子区などが爆撃を受けました。東十条にも爆弾が落ちて、うちのそばに成せいりつ立商業学校(今の成立学園中学・高等学校)がありますが、あそこでも何人か亡くなっています。爆弾のために線路も不通になりました。終戦後、新幹線の工事のときには不発弾が出てきました。──ご家族やお知り合いは無事でしたか。家族はおかげさまで全員無事でした。でも8月10日の空襲では、成立商業学校に通っていた小学校時代の友達がひとり亡くなりました。──東京に戻られてから、中学校ではどのような勉強をしていましたか。私の中学校は英語の授業がありました。校長が東京大学の英語科を出た人で、英語の先生も何人かいました。でも、焼け跡の手伝いがけっこう多かったです。空襲で焼けると幹線道路を整備しなくてはいけないから、スコップを持って行き片付けていました。──終戦の日のことをお聞かせいただけますか。当日の朝、正午から大事な放送があるとラジオから流れ、みんなで集まって聞きました。まわりの人は「徹てっていこうせん底抗戦だ」とか「最後の1人まで戦え」と言われるのではないかと推測する人が多かったですね。──実際にラジオで玉ぎょく音おん放ほうそう送は聞かれましたか。聞きましたが、中学生ですからはっきりとは理解できませんでした。おやじが「戦争に負けたな」と言ったので、「ああ、そうなのだな」と。戦争は終わったけれど、これからどうなっていくのか分かりませんでした。ただそれ以後、飛行機は飛んでこなくなったし、空襲警報も鳴らないのでホッとしました。学校の先生で、それまでは必ず日本が勝つと言っていたのにコロッと態度が変わった人もいましたね。──終戦後、アメリカ軍の兵士を見かけることはありましたか。すぐに進しん駐ちゅう軍ぐんが入ってきました。2?3人で銃を持ちジープに乗っていました。電車も走り出しましたが、車内にも2人くらいいました。ある程度時間がたってから、進駐軍専用の車両が1両作られました。アメリカ兵を見て、怖いということはありませんでした。ピシッとプレスのきいた服を着てジープに乗ってやって来るから、みんな格好よかったですね。大きな携帯ラジオを持っていたのも印象に残っています。──お店はいつ頃から再開したのでしょうか。岩本町の店は2月25日の空襲で焼けました。あとから聞いたのですが、昭和通りの家屋は木造だったので、昭和通りくらいの広さだと火が不発弾戦時中、本土や近海などに投下された砲弾が何かの不具合により起爆しなかったもの。現在も開発工事や建設現場などで不発弾が発見されることがある。不発弾処理は非常に危険な業務であるため、自衛隊の専門教育を受けた隊員が処理にあたる。79未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記疎開