ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

第2部体験記疎開に母の家があって、芋やトウモロコシを植えてまるで兵隊が戦地へ行くようでした。頭だけでした。うちは埼玉の春日部に近い杉戸を立て、沿道でも旗を振って大騒ぎでしたよ。た。うちが燃えた時も持ち出せたのはミシンのこりゃあ疎開するしかないだろうとなりましん引が率1は人代。用練教塀員町だかっらた上野20代の川野先生と寮母さ駅までは、日本の旗す。逃げるしかない。近所のたわし屋が燃え、と言われ始めました。焼夷弾って消えないんで者年全8員月が行15日きでますし。3た。年5生年か生らは6年生までの希望28人いました。すよ。アメリカ軍が上陸してくるかもしれないていたしね。出発したのは昭和19(1944)焼しょ夷うい弾だんがぼろぼろ落ちるようになってからではいっぱいあると思ってた。おやじがそう言っ──それがやがて空襲も始まってきたわけですね。じ引きで負けたそうです。でも会津なら食べ物をしていたんです。学校ごとに行き先を決めるんですが、校長がくした。戦争も最初のうちはずっと、平常な生活5年生の時に、会津に行くことになりました。小学校(当時は国民学校初等科)に通っていま──それから学童集団疎開に行ったのですね。硬い表紙の本)を作っていたんです。私は練ねり塀べいて。うちのおやじはここで上製本(背中の丸い、僕は長男だから死んだら困ると、おやじも言っ──まず、疎開する前のことを教えてください。だい皆バラバラに疎開することになりました。5人もいて簡単ではありません。だからきょう日の丸の旗に送られて福島へいました。そこに行けばいいんですが、子供がいます。代しろでは、仲間たちと苦労を共にし、深い絆きずなを培つちかったとい校初等科5年生の時に、集団学童疎そ開かいした推進連合会長を務めてきた中島光治さん(福82島歳県)。の国猪い民苗な学わ神田練ねり塀べい町ちょうで製本業を営み、町会長や秋葉原街づくり仲間たちと会津で過ごした1年間猪苗代町●中島さんの疎開先(千代田区神田練塀町から福島県猪苗代町へ)約200㎞なかじまみつじ中島光治神田練塀町神田練塀町インタビュアー泉政秀(区内在勤者)横山嶺州多(中学3年生)81未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集