ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

夜行列車に乗り、早朝に猪苗代駅に着きました。野口英世の故郷ですね。3・4年生は駅前の旅館が疎開場所。女子はそこから1時間くらいかかる中ノ沢温泉に行き、5・6年生は3里の山道を2、3時間ほどかけて登り、磐ばんだいさん梯山麓ろく川かわかみ上温おんせん泉の旅館「滝の湯」に行きました。裏磐梯の五ご色しきぬま沼の近くです。広くて大きな旅館でした。僕たち5年生はそれから、戦争が終わるまでの丸1年疎開していました。6年生は終戦前に東京に帰って、家に入る前に爆弾でやられて死んだ人はいっぱいいます。親が死んだ人も多いですね。疎開先では食べ物の確保に苦労──疎開先での食事はどういうものでしたか。食事は3食出ました。ご飯と味噌汁。白米じゃありません。丸麦が半分くらい入っていて硬いんです。口に入れたら100回くらい?かんでからやっと飲み込んでいました。期待していただけの食べ物は全くない。地元に食い物がないわけではありません。疎開の子供たちに回ってこないんです。旅館にも米がない。それで皆、山になっているグミとかアケビを採ってくるんです。変なものを食べて中毒になった者もいます。川に行けば魚はもちろん、ミジンコなど食べられるものはなんでも食べていました。栄養失調で皆やせてしまいましたよ。──裏磐梯は、冬は雪の多いところですね。冬になっても暖房もないから、皆で添い寝しました。でも、雪が降ると下から食糧も上がってこなくなります。木炭バスも坂を上ってこれない。それで猪苗代の町に降り、「江えど戸亀かめ」という旅館に移ることになりました。「滝の湯」から歩いて降りました。でも雪の中でみんな歩けない。すると地域の婦人部の人たちが背中に背負って降ろしてくれたんですよ。そういう時代だったんです。その年は豪ごうせつ雪で、猪苗代でも4メートルくらい積もりましたね。道路も積もった雪が固まってしまい、旅館の前に階段を作って、2階から出入りするくらいでした。──降りてからは食べ物もよくなったんですか。町に降りたらアルバイトがあるんですよ。行って仕事を手伝うと食わしてくれる。医者で薬を計って紙に包むとか、酒さかぐら蔵での酒造りとか、手伝えば昼飯を出してくれるんです。ご飯を食べられるから仕事するわけ。僕にとって初めてのアルバイトでしたね。5・6年生は列車で東京に戻り、神田駅の闇やみいち市まで行って物を食べてくる者もありました。──授業はどんなことをしましたか。教きょうれん練が中心でした。川上温泉にいた時は五色沼まで裸はだ足しで走りました。砂利道ですよ。だんだん足の裏も強くなりましたよ。軍事教練もありましたよ。銃剣でとか言われていたけれど、木刀・竹しない刀でした。そんなものでエイエイやっていたんじゃ仕方ないですね。木刀で戦争し国民学校初等科の修了証書と通知表教練「教練」とは教えて熟練させることを意味する。大正14年以降、学校に陸軍将校を配属させ、学生・生徒を対象に、体育を促進し、徳育を養い、国防能力を増進することを目的に軍事に関する訓練が行われた。82未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集