ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

祝いしようと料理を並べて先生を待っていたんです。でもいつまでたっても来ない。玉音放送を聞いていたんですね。そして真っ青な顔でやってきて、戦争が終わったと言ったんです。先生が手しゅ榴りゅう弾だんを隠していたことは翌日知りました。なにかあったら皆で自決するために預けられていたそうです。それからが大変でした。この先どうなるか分からないし、家も焼けてどうなっているか分かりません。親が亡くなった人もいます。住んでいた場所に帰れるわけじゃないので、皆の行き先が見つかるまで猪苗代にいて、戻ったのは10月頃です。同じ小学校だった仲間たちは、散り散りになりました。戻ってから1年間は埼玉に──中島さんはどこに戻られたのですか。帰っても家は焼けてしまったし食べるものもない。しかも1年間福島にいたので勉強も遅れています。それで杉戸の母の家に行き、姉と2人で蚕かいこ小屋を1軒借りて住みました。里芋とかいろいろ植えていましたよ。北きたかつしかぐん葛飾郡南みなみさくら櫻井い国民学校に通い、新制中学の神田一ツ橋中学校を受験するため、先生が夜までずっと教えてくれました。国民学校の生徒は300人くらいいましたが、新制中学に入るのは10人くらい。だからいじめもありました。でもうちは母親方が大地主だったので、別格だったかもしれない。終戦時、集団自決の可能性もあった──福島では空襲はなかったんでしょうか。郡こおり山やまに来ていましたよ。列車が爆撃されることも多かった。うちのおやじが「面会に行く」という手紙を送っても5回に1回しか来ない。結局来たのは2回くらい。途中で空襲に遭あって、手紙が来ないんです。雪の中を駅まで迎えに行っては、悔くやしい思いをしました。爆撃でガラスが刺さって、血だらけで面会に来た女の人も何度も見ました。3年生では脱走する子もけっこういましたね。旅館が猪苗代の駅前だから、親が面会に来るとついて帰っちゃうんですよ。──日本が負けると思いましたか。いや、負けないと思っていました。でも物資がない。爆撃も激しい。僕なんかもあの時分は玉ぎょく砕さいも考えていましたよ。飛行機に乗ってやってやるつもりでした。知っている中にも、行きだけのガソリンを積んで突っ込んでいった人もいます。──予よか科練れんに入ることも考えましたか。受けるつもりでしたよ。そのために勉強していましたし。あの時分はそれが当たり前でした。いい悪いじゃない。国のため、人のため。みんなで助け合おうという風ふう潮ちょうでしたから。でもその前に戦争が終わったわけです。──中島さんは玉ぎょくおん音放ほうそう送は聞かれたんですか。僕らは聞いていません。昭和20(1945)年8月15日は、ちょうど疎開1年目で、皆でお当時疎開先で交流があった長沢昇(セツ)画伯から送られた絵手紙。この絵手紙が、疎開仲間との同窓会をつくるきっかけに玉音放送「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び…」とポツダム宣言受諾の詔書を読み上げた天皇ご自身の放送。昭和20年8月15日正午、ラジオから流れ、3年8カ月余の戦争が終結した。84未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集