ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

では皆、本当に苦労しました。だから団結力が強いんです。「磐友会」では僕が幹事になって川野先生や長沢さんを招き、毎年夏になると磐梯を訪ねていました。でも仲間も次々と亡くなっていって。70歳くらいで死んだ人はいっぱいいます。僕は82歳まで生きながらえました。その会は平成15( 2003)年までやっていました。──最後に、若い人たちに伝えたいことを。やっぱり戦争はいけない。学童疎開した人も縁えん故こ疎開した人も、皆大変でした。家族を亡くした人も大勢います。何があったのか伝えていかないと、やがて分からなくなります。資料や写真もなくなる。戦争をなくすには、皆が仲良くやるしかない。それを今の子供たちに分かってもらいたいですね。卒業式で進学する者が皆殴られて警察が来たりしたときも、先生に「中島は帰れ」と言われて。恵まれていたと思います。──製本の仕事も戦後再開したのですか。そっちもやっていました。朝、まず家の仕事を手伝い、それから学校に行っていました。紙を切る機械もないから、包丁で切っていましたよ。──東京にはいつ戻られたのですか。戦争が終わって1年後です。最初は家もバラックでしたよ。なにもかもなくなったんだから。──東京は変わっていましたか。風景はまるで変わっていました。でも、そのことよりも食料がないことが大変でした。食べ物はすいとん。昭和通りに炊き出しが出て、ドンブリ持って並んで。それでおやじと一緒にリュックを背負って春日部に通いました。母の妹が米屋をやっていたんですよ。そういう親しんせき戚があればいいけれど、ない人は着物とか持って行って物々交換していました。でも検けんえつ閲に遭あうと取られてしまう。そのうち僕1人で行くようになり、検閲を避けるため夜の11時頃に浅草から歩いて帰ったりしていました。──疎開仲間の同窓会は戦後に始めたのですか。きっかけは長沢昇さんからの絵手紙なんですよ。僕が疎開先でキュウリを食ってる絵が描いてあって。それを見て、全国に散らばった仲間が集まる会を作ろうと思い立ちました。疎開先写真左から、横山さん、中島さん、泉さん85未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記疎開