ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

──当時の永田町小学校の様子を教えてくださ「軍国少年」という言葉が流は行やっていました。ありませんでした。うか。で全学年にきょうだいがいるというのも珍しく──その頃はどのように過ごしていたのでしょせよ〟の時代でしたから、1年生から6年生まいいも悪いも分からなかったです。みんな旧永田町小学校出身です。〝生めよ殖ふやす。ただ先生の言うとおりにするだけですから、きょうだいは4人で、姉、弟、妹がいます。本が勝った!」と旗行列をしたのを覚えていま小学2年生でした。なで日の丸の旗を持ち、国会議事堂の前で「日●山口さんの疎開先(千代田区平河町から山梨県河口村へ)河口村(114(94 11 9) 3年9に)太年平に洋入戦学争しが始まましったた。と昭き和は16が、その昭南島が陥かん落らくしたときは、小学生みん約90㎞平河町廃校になりましたが、旧永田町小学校に昭和日し本たが。占昭領和して17(〝1942)昭年、シンガポールはしょう南なん島とう〟と言われていました麹町に住んでいます。平成5(1993)年にが、小学2年生のときに太平洋戦争が始まりま麹町(当時・現在の平河町)生まれ昭和7(1932)年生まれ、満で、83歳ずでっすと。戦争についてよく知らずに育ってきましたお聞かせいただけますか。徒たは。6 16教0室人にくら55名いくでらしいたい。ましたから、全校生──まず、山口さんご自身と家族構成について学年2クラスで、男組と女組に分かれていまし私たちの時代は男女共学ではありません。1戦争のことは何も分からなかったい。や当時の暮らしなどを中心にお話しをうかがいました。学生で経験した学がく徒と動どう員いんでの労働、東京での空襲の恐怖戻ってきて空襲に遭あう。食糧難で辛つらかった疎開生活、中在のやまぐちみつひろ山口光弘平河町さん(河口83歳湖)町。)永に田集町小団学疎そ校開かい6し年、生中の学と受き験、の山た梨め県に河東口京村(へ現豆腐屋の家業を継ぎ、7年前まで営んでいた山口光弘河口湖での疎開生活は「わが人生に食い物なし」インタビュアー富山愛芙美(大学3年生)千野彩佳(高校3年生)松崎璃々花(中学1年生)未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集86