ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

竹を腰に差し、兵隊ごっこをして遊んでいましたね。いわゆるチャンバラです。自宅のそばに平河天満宮という天神様があるのですが、境けいだい内でベーゴマやメンコをしたり、将棋もよくやったりしました。今の将棋とは違い、軍人将棋というのがあり、いちばん強いのは元げんすい帥です。「欲しがりません。勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」、そんな言葉も流行っていて、女性はパーマネント禁止でした。軍国主義でしたからとにかく兵隊さんが最優先で、都電に乗って座っていても兵隊が乗ってくると席を譲っていました。私はまだ子供でしたから、なぜ日本が戦争をしているのか何にも分からなかった。当時の生活をただそういうものだと思ってずっと過ごしていました。疎開生活はとにかく「腹減った」──疎開したときのお話をお聞かせいただけますか。昭和19(1944)年9月になると、小学3年生以上はみんな強制疎開をさせられました。私が6年生のときです。お父さんやお母さんの実家など田舎のある人はそちらに行くけれど、うちにはなかったので集団疎開へ行くしかありませんでした。昔、このあたりは麹町区という名前でした。昭和22(1947)年に麹町区と神田区が一緒になって千代田区になりました。今は23区ですが、当時は35区あったんです。麹町区の場合、集団疎開先は山梨県です。永田町小学校は河かわ口ぐち湖こ、麹町小学校は大月、番町小学校は富士吉田という具合に、みんな山梨県に分散しました。弟は小学1年生、妹は小学校に上がる前でしたから、学童疎開へ行ったのは私1人です。四ツ谷駅の陸橋で家族に見送られ、泣きながら別れました。どこに行くのか分からなかったし、何のために疎開するのか、それも分かりませんでした。──先生から説明はなかったのでしょうか。「あなた方は未来の兵隊になる。大切だから疎開するのだ。身体を丈夫にしてアメリカと戦わなければならない」と、そのようなことを言われました。けれども、よく理解できませんでした。──疎開先の河口湖はどんなところでしたか。私たち6年生の疎開先は河口湖畔の竜宮ホテルでした。冬になると、湖の表面が氷結するんです。氷の厚さが1メートル以上もありました。車なんてないですから、地元の人は下駄の裏に包丁みたいなものを付けた下駄スケートというものを履はいて、対岸を行ったり来たりしていました。──疎開生活はどのようなものでしたか。なにしろ、食べ物がなかった。河口湖は田んぼがなく、お米のないところなんです。あったのはトウモロコシだけ。毎日、トウモロコシをすり鉢ばちですって粉にし、水を入れて練ってお団疎開先の山梨県河口村87未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記疎開