ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

校は2階建てで、障しょうじ子の貼ってある校舎でした。でも、そこで勉強した記憶はほとんどないです。あとは、付き添いの先生がホテルの部屋で勉強を教えてくれました。──地元の小学校では、東京から疎開してきたことに対して何か言われたりしませんでしたか。「疎開っ子」と言われましたね。「疎開っ子が来たから逃げろ」「疎開っ子と口をきくな」と言われたこともあります。たいして気にはしなかったですけれど。──疎開先では何をして遊んでいたのですか。河口湖のボートに乗ったのは覚えていますが、あまり遊んだ記憶はないですね。とにかく毎日が「腹減った」「帰りたい」。そればっかりでした。学徒動員の労働で松の根を掘る──疎開生活は半年とのことですが、その後は東京に戻られたのですか。私たちの時代は、小学校を卒業したら5年制の中学校(旧制中学校)に入ります。旧制中学校は義務教育ではないから入学試験があります。3月が受験ですから、翌年の2月に東京へ戻ってきました。──東京に戻り、家族と再会できたときはどんな気持ちでしたか。両親に会ったときはもう涙・涙です。あれが親子の情じょうというのでしょうか、親のありがたさが身に染み、今まで育ててくれたことに感謝しました。──受験後はどうされたのですか。早稲田実業学校に進学しましたが、入学してからまた苦労をしました。というのは、中学生は学徒動員がかかります。4月に私も召集されました。飯田橋駅から汽車に乗せられたのですが、窓に鎧よろい戸どが下ろされていて、どこへ連れて行かれるのかも分かりません。「もう生きて帰れないかもしれない」と、飯田橋駅で見送りにきた母親と水みず杯さかずきし、「お母さん!」と号ごうきゅう泣しながら別れました。──行き先も分からなかったのですね…。汽車が着いたら静岡県の御ご殿てん場ばでした。今、陸上自衛隊の滝たきヶが原はら駐ちゅう屯とん地ちがあるところです。労働といっても中学1年生だから技術的なことは何もできません。だから、松の根っこを掘らされました。そのときは何がなんだか分かりませんでした。あとになって聞いたのですが、松しょう根こん油ゆという油を作るんです。日本には零ぜろせん戦という戦闘機がありましたが、なにしろガソリンがない。インドネシアなど石油のルートはすべて封ふう鎖さされていますから。戦闘機用の油を作るために、松の根っこを掘るわけです。3?4歳上の見習い士官がとにかく怖くて。剣道の竹しない刀で膝ひざやお尻をひっぱたかれて毎日泣いていました。毎朝点てんこ呼があって、学生服を着て整列するのですが、慌てて行くものだからボ松根油松の根や枝を乾留して取り出す油。航空機用ガソリンの代用品として政府は昭和19年秋、松根油緊急増産対策措置要綱を定め、子供たちまで総動員して松の根を掘らせた。しかし乾留の燃料不足のため松の根は放置されたままだった。89未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記疎開