ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

ほとんどが焼けてしまう。〝風は火を呼び、火炎上させます。木造の日本家屋が多かったから、に入っている爆弾です。B1本29が11本発がの引焼火夷物弾をを撒落まきと散すらとし、て中いたのは、焼しょ夷うい弾だんという油脂を使った燃焼性のら空襲が激しくなりました。東京に落とされててくる20日こほとどがしでてき学ま徒し動た員。がで終もわ、り戻、っ東て京きにて戻かっ──御殿場での労働はずっと続いたのですか。焼け落ちた学校で行われた青空教室その動員がいちばん辛かったです。かく中学に入るために東京に帰ってきたのに、自分が悪かったと思うしかないですよね。せっ陛へい下かのためだから」と必ず言われましたから、悔しいという気持ちはなかったです。「天皇──そのときはどんな気持ちでしたか。ざいました!」と。を?かみしめてひっぱたかれると「ありがとうごまず言われるのが「歯を食いしばれ!」。奥歯リッパで顔をひっぱたかれるのです。そのとき、学生にもなって何をやっているんだ!」と、ス1人が失しっ態たいをすればみんなやられてしまう。「中が共同責任です。例えば5人の班だとすると、す。団結力を植え付けるため、当時は何もかもいるんだろ!」と言って全部もぎ取られるんでボタンはどうしたんだ!いらないから外してタンが外れていたりする。そうすると、「貴様ら、げました。今思うと、よく助かったと思います。が掘られていたのですが、母親たちはそこへ逃ころが崖がけになっていて、そこに横穴式の防空壕逃げることもありました。今の全共連ビルのと私が防空壕に入れないから、家族バラバラで──ご家族も無事でしたか。ちらへ逃げました。を落とさないだろうと、私は近所の人たちとそたし3、月ニコ10日ラのイ空堂襲はでロ神シ田ア地の区もはのすだでかにら焼焼け夷て弾いけです。勢おり、「日本のために戦え!」と怒られるわ在ざ竹たいけ郷ご槍やうり軍ぐん人じんといって兵隊から帰ってきた大人が大を持って戦えと言われていました。町にはないんです。アメリカ兵が来たら、逃げずに男は中学生になると、防ぼう空くう壕ごうに入ってはいけどこに逃──5月げた25日のので麹す町かの。空襲のとき、山口さんは赤に染まっている光景は今も忘れられません。は麹町から見ていました。皇居の方の空が真っその日は寒いなんてものじゃなかった。空襲しょうか。──3月10日の空が焼けたのは5月襲25の日との空き襲はでどすう。だったのでにか3け月ては10日が本所や深川方面、4月神田区が空襲に遭あいました。13日麹?町区14日るんです。なるとすごい風が吹いてあっという間に延焼すは風を呼ぶ〟という言葉がありますが、火事に河口湖に浮かべた舟に乗る児童たち(永田町国民学校)未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集90