ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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概要

未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

もう、あんな思いはしたくないですね。しばらくしてから、父親たちと焼けたトタンでバラックを建てました。やっぱり食べ物に関してはすごく苦労しました。食糧は配給制度で、お米なんて1週間に1回配給があればいいほうです。とにかく食べ物がなかったので、国会議事堂の敷地でカボチャなどを作っていました。近所ということで大人たちがお願いしたのではないでしょうか。カボチャ泥棒が出るから、交替で見張りをさせられました。他にも、植木鉢にはキュウリやナスなど、とにかく食べられる物をみんな植えていました。防空壕生活のときは外で料理をしていました。一いっ斗と缶かん(石油缶)に穴を開けて上に鍋を置き、下から薪まきで火を焚たいて煮にた炊きをしました。お風呂も外の五右衛門風呂。ドラム缶に薪でお湯を沸かし、下げた駄を履いて入っていました。──通っていた中学校はどうなったのでしょうか。4月18日の空襲で早稲田地区が焼けました。今は国分寺に早稲田実業高校がありますが、当時は早稲田大学の大おおくまこうどう隈講堂のすぐ脇にありました。校舎は木造で、ヨーロッパ風の素敵な建物でした。それがB29の爆撃でやられて丸焼けになったのです。勉強なんてできない状況ですが、校舎はないけれど「青空教室」という名前で授業が行われ、天気のよいときだけみんな学校へ行きました。雨が降ると休みになるから喜んでいましたけどね(笑)。空襲が終わって、麹町へ帰ってきたら町が丸焼けで何もなかったです。このあたりで残ったのは、英国大使館、国会議事堂、私の母校の永田町小学校の3つだけです。国会議事堂はB29から爆撃されないよう、とんがった屋根に黒い網あみをかぶせていました。英国大使館は自国のものだから焼かないですよね。無差別爆撃といっても、きちんと計画されていたんです。その空襲では、多くの人が亡くなりました。麹町警察署の隣は麹町区役所だったのですが、警察署にはさすがに逃げ込めなくて、みんな区役所に逃げていました。でも、区役所に逃げた人は、まわりが焼けたため蒸し焼きになって死んでしまった。大だいはち八車ぐるまに荷物をいっぱい積んだまま傾いて死んでいる人も見ました。亡くなった人の処理の仕方がまたものすごいんです。昔の電信柱は木で、腐敗を防ぐために油脂が入っているのですが、それを切ってきて広場に櫓やぐらを組む。それを燃やしてどんどん遺体を焼いて。身元の分からない方がたくさんいたと思います。焼いている光景も見ました。もう何と言ったらいいのか分からなかったです。──ご自宅も焼けてしまったのですか。はい。自宅が焼けたので、永田町小学校の体育館で仮寝をしたり、防空壕で近所の人たちと一緒に生活したりしていました。防空壕生活は大変でした。狭い空間に大勢が入っているので、夜トイレに行って帰ってきたら寝る場所がありません。雨の日は中に水が入ってきてしまう。91未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記疎開