ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

分からなかった。ただ、分かったのは「堪たえ難きを堪え、忍び難きを忍び」という言葉です。近所のおじさんが「戦争が終わった」と教えてくれ、それでようやく分かりました。皆さん、どういう心境だと思いますか。──それまでずっと勝つと思っていて、急に「戦争が終わった」と言われたらびっくりします。本当にそうです。皇居の広場に集まって二重橋の方へ向かって最敬礼をしている写真を見たことがあるでしょう。大人たちはみんなあの姿です。天皇陛下に申し訳ないと泣いている人もいました。ただ、あと3カ月も戦争が続いていたら、私たちの年代はこの世にいなかったかもしれません。今は物の使い捨ての時代と言うけれど、特攻隊を見ても分かるように、当時は人間の使い捨ての時代でしたから。英語の授業にとまどう日々──終戦後、町はどのような状態だったのでしょうか。財ざいばつ閥は解体され、町会組織も解散させられました。マッカーサーは日本の団結力を重要視したのですね。団結したら何をやるか分からないと。町会行政というものは、昭和27( 1952)年、サンフランシスコ平和条約の発効でもって禁止が解かれるまでなかったんです。財閥解体に伴って、昭和22年に新制中学校と──外で勉強をしていたのですね。机はどうしたかというと…。東京には、今の都営住宅や区営住宅みたいな形で木造平屋の住宅がありました。昔は、台所の流しは木でできていたんです。板に水が流れる穴があいていて、足が4本付いている。どうやって都合をつけたのか分かりませんが、それが学校に配給になり、生徒みんなに配ってくれました。その木の流しを裏返しにして、机がわりにして使っていました。──中学校では軍ぐん事じ教きょう練れんはありましたか。動員先の滝ヶ原でやりました。竹槍で前へ前へとつつく訓練です。そのときにも教官に絞られました。辛くて、辛くて。ああなると涙も出なかったです。──空襲後の町の様子はどうでしたか。終戦の少し前、このあたりも兵隊さんがたくさん歩いていましたが、彼らは靴を履いておらず、地じ下か足た袋びでした。お祭りなどで仕事師(職人)が履いている、足袋の底にゴムがついているものですね。もともと、軍靴は今のバスケットシューズが長くなったようなものでした。靴すらない状態です。それでも、日本が負けるとは思っていませんでした。──玉ぎょくおん音放ほうそう送を聞いたときのことを教えていただけますか。父親や近所の人と一緒に聞きました。今のように電波がよくないからラジオがガーガーいって、天皇陛下が何をおっしゃっているのか全然男子生徒・女子生徒の笑顔が並ぶ疎開先の校舎から(2枚とも永田町国民学校)92未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集