ブックタイトル未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

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未来へつなぐバトン 千代田区戦争体験記録集

年の卒業になります。まだまだ、街にはアメリカ兵がたくさんいました。──実際にアメリカ兵を見ることもあったのですか。毎日、見ていましたよ。今の銀座4丁目の交差点は信号があるけれど、当時の交通整理はアメリカ兵がやっていました。──アメリカ兵を見てどう思いましたか。格好いいと思いましたね。──怖いとは思わなかったのですね。そういうイメージはありませんでした。麹町にもアメリカ兵の宿舎がありました。国立劇場に国立演芸場がありますが、あのあたりが進しん駐ちゅう軍ぐんに接せっ収しゅうされて、〝カマボコ兵へい舎しゃ〟というアーチ型の兵舎ができました。麹町はGHQの本部がある日比谷に近いため、幹部クラスが住んでいたのです。家族連れの人たちが住む兵舎でしたので、婦女に対する問題などはなかったですね。みんな自動車で日比谷まで通っていました。兵舎では、近所の人を雇用して働かせてくれました。仕事がなかったので、助かった人もずいぶんいましたよ。敵国に使われるなんて考えたこともなかったですが、生活のためには仕方ありません。「喉のどもと元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉がありますが、確かにそういうこともあると思います。──早稲田実業を卒業したあとはどうされましたか。法政大学の経済学部に進みました。卒業後はして設立された麹町中学校は、安田財閥の創始者・安田善次郎から土地を無料で譲り受けました。それまで麹町中学校には校舎がなく、永田町小学校を借りて授業を行っていました。いいか悪いかは別にして、今考えると恩おんけい恵をこうむっている部分もあったかもしれません。──終戦後はまた学校に通ったのでしょうか。はい。早稲田実業学校は、当時は男子校で2クラスありました。いちばん困ったのは英語です。「敵の言葉を使うな」とずっと言われてきましたから、いっさい英語は使っていませんでした。戦争中は「ポケット」と言うとひっぱたかれましたから。「何て言うんですか」と聞いたら「物入れと言え!」と。終戦後、急に英語の先生が来ましたが、何を言っているのか分からない。最初に覚えたのは、犬はDog、猫はCatです。「ネズミは?」と聞かれて「チュー」と答えたら立たされました(笑)。──英語を学ぶことにとまどいはありましたか。ある意味、毎日ですよ。英語の時間が嫌で、仮け病びょうをつかって逃げたこともありましたね。英語の試験も当然できませんでした。英語ができる友達が1人いて、解答をみんなが写すんです。その人が間違えると、みんな間違えていました(笑)。在学中に学制改革で新制中学校・新制高校ができ、もともと私たちは5年で卒業するはずだったのですが、それが1年延びて新制高校を卒業ということになりました。昭和26 (1951)昭和22年当時、GHQの総本部には星条旗が掲げられていた(現在はDNタワー21)GHQGeneral Headquartersの略。総司令部の意味だが、一般にポツダム宣言受諾、敗戦に伴い対日占領政策遂行のために設置された連合国軍総司令部のこと。本部は日比谷の第一生命相互ビルにあった。対日平和条約発効とともに廃止された。93未来へつなぐバトン千代田区戦争体験記録集第2部体験記疎開