更新日:2023年3月8日

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千代田区内の坂

  • 1.汐見坂
  • 2.梅林坂
  • 3.紀伊国坂
  • 4.霞が関坂
  • 5.潮見坂
  • 6.三年坂
  • 7.茱萸坂
  • 8.山王坂
  • 9.山王男坂
  • 10.山王女坂
  • 11.新坂
  • 12.三べ坂
  • 13.梨木坂
  • 14.富士見坂
  • 15.三宅坂
  • 16.諏訪坂
  • 17.中坂
  • 18.鍋割坂
  • 19.貝坂
  • 20.清水谷坂
  • 21.紀尾井坂
  • 22.善国寺坂
  • 23.永井坂
  • 24.五味坂
  • 25.袖摺坂
  • 26.南法眼坂
  • 27.行人坂
  • 28.東郷坂
  • 29.鍋割坂
  • 30.御厩谷坂
  • 31.帯坂
  • 32.新坂
  • 33.三年坂
  • 34.一口坂
  • 35.富士見坂
  • 36.二合半坂
  • 37.冬青木坂
  • 38.九段坂
  • 39.中坂
  • 40.小栗坂
  • 41.皀角坂
  • 42.男坂
  • 43.女坂
  • 44.錦華坂
  • 45.富士見坂
  • 46.甲賀坂
  • 47.雁木坂
  • 48.池田坂
  • 49.淡路坂
  • 50.紅梅坂
  • 51.幽霊坂
  • 52.新坂
  • 53.観音坂
  • 54.明神男坂
  • 55.昌平坂
  • 56.正和坂

1.汐見坂(しおみざか)

皇居東御苑にある白鳥濠の北側の坂で、この坂を上ると旧本丸跡に出ます。『紫の一本』(戸田茂睡著)には、「此所より海よく見へ、汐のさしくる時は波ただ爰元へ寄るような故塩見坂といふ。今は家居にかくされて見へず。」とあり、下町方面が埋め立てられて、海岸線が遠くなり、市街地の栄えていくありさまがしのばれます。

2.梅林坂(ばいりんざか)

皇居東御苑の平川門を入り、平川濠と天神濠の間を抜けて、宮内庁書陵部の前に出る坂です。『東亰市史稿・皇城篇』には「権現さま 小田原表より御城に御移り遊ばされ候節……小坂の上に梅の木数多植廻し 其内に宮立両社これあるを御覧遊ばされ 道灌は歌人ゆへ天神社を建置きたると仰せにて残る一社の額を御覧遊ばされ候……御普請の節 北の丸にこれあり候様にと仰せつけられ 右両社の跡 梅の木あまたこれあり 今以て梅林坂と申しふれ候なり」と書かれています。

3.紀伊国坂(きのくにざか)

「内堀通り」を竹橋から国立近代美術館・国立公文書館の前を、北桔橋門(きたはねばしもん)前あたりまで上る緩やかな坂です。『紫の一本』(戸田茂睡著)には「紀伊国坂松原小路より竹橋御門へ出る坂をいふ。今の灰小路の所、元尾張紀伊候の御屋敷ありし故なり」とあり、『再校江戸砂子』(菊岡治涼著)には、「紀伊国坂 竹橋御門へくだる小坂をいふ。むかし此所に尾紀の両御館ありしなり、今赤坂に同名あり」と書かれています。

両邸は明暦3年(1657)正月の大火で焼失し、尾張邸は市ヶ谷に、紀伊邸は赤坂に移りました。この大火は「振袖火事」とも呼ばれ、江戸城の天守閣もこの時に焼失し、以後再建されませんでした。

4.霞が関坂(かすみがせきざか)

霞が関二丁目の人事院と外務省の間を西から東へ下る坂です。現在では霞が関一丁目に続く所は、傾斜が見られませんが、昭和初期の地図でも日比谷公園に突き当たる直線道路で、すぐ南側の潮見坂と並んで、長い傾斜をもっていたものと思われます。

中世の頃、この辺りに関所が置かれていたことから名が起こり、江戸時代には広壮な大名屋敷が建ち並んで、錦絵にもよく描かれています。霞が関ゆかりの名も、現在では中央官庁街の代名詞に使われています。

5.潮見坂(しおみざか)

霞が関二丁目の外務省と同三丁目の財務省の間を、日比谷公園の南脇まで下る坂です。霞が関坂と三年坂との間にあって緩やかな長い傾斜をもった坂ですが、中世の頃までは日比谷公園辺りが渚であったといわれますから、この坂も当時はもっと急坂で、眼下に海を臨むことができたので、この名がつけられたのでしょう。

6.三年坂(さんねんざか)淡路坂(あわじざか)

霞が関三丁目の財務省と文部科学省との間の坂です。今は会計検査院の前を直線に首都高速道路4号線に突き当たりますが、昭和39年頃まではこの坂の上部が二段三段と曲折した坂が続き、その所を栄螺尻(さざえじり)と呼んでいました。

『新撰東京名所図会』には、「三年坂は潮見坂の南に隣れり、裏霞が関と三年町の間の坂なり。坂を上れば栄螺尻とす。昔此坂にて転ぶときは、三年のうちに死すという俗説より此の名起れり。又、淡路坂ともいい一に此処を陶山が関といふ。……裏霞が関と三年町の間、道路の盤曲する所を栄螺尻と呼ぶ。」とあります。

また、『新編江戸志』(近藤義休撰)には「曲り曲りたる坂の名なり、亦此辺鶯多し、因て鶯谷というよし見えたり。」とあります。なお、同名の坂は「33.」にもあります。

7.茱萸坂(ぐみざか)番付坂(ばんづけざか)

永田町一丁目、国会議事堂の南側を東に下る坂です。その先は潮見坂に続きます。番付坂と呼ばれたこともあります。『新編江戸志』では「丹羽家表門見通し、内藤紀伊守殿本多伊勢守殿中屋敷の間、九鬼長門守殿屋敷の前に出る小坂なり。両側にぐみの木ありし故の名なり。」とあります。

『新撰東京名所図会』には、「永田町一丁目と三年町の間を清国公使館前に上る坂を呼ぶ。番付坂は茱萸坂の一名にして、昔時山王の祭礼には、必ず此ところにて、花車の番付札ありて其の行列をあらためしよりいう。」とあります。

8.山王坂(さんのうざか)鹿島坂(かじまざか)

永田町二丁目衆議院第一議員会館と第二議員会館の間を日枝神社(山王社)前に下る坂です。この坂の辺りは、明治維新まではほとんど山王社の社地でしたから、この名で呼ばれたのでしょう。また、坂の近くに明治時代の豪商鹿島清兵衛の屋敷があったので鹿島坂とも呼ばれました。

9.山王男坂(さんのうおとこざか)

永田町二丁目の日枝神社の表参道で、正面の鳥居から五十三段の石段を上る坂です。

日枝神社は元は日吉山王大権現といい、太田道灌が川越から江戸城内に勧請し、江戸鎮守の神として祀り、徳川家康が入府してからは将軍家の産土神として崇敬されて来ました。しかし、慶長年中(1604-1614)の江戸城改築にともない半蔵門外に移り、明暦3年の大火で焼失し、万治2年に現在地に再建されました。太平洋戦争で再び戦火を被り、10年にわたる歳月を経て昭和33年に復興しました。日枝神社のある山王台地は、「星が岡」ともいわれ、溜池を臨む景勝の地でもありました。

10.山王女坂(さんのうおんなざか)御成坂(おなりざか)

日枝神社正面の山王男坂の左手を迂回するように上る坂で、男坂より勾配が緩くなっています。将軍の参詣の時だけ用いられたので、別名御成坂とも呼ばれました。

11.新坂(しんざか)遅刻坂(ちこくざか)

永田町二丁目の都立日比谷高校とメキシコ大使館の間を「外堀通り」へ下る坂です。かなりの急勾配で、登校を急ぐ生徒たちがあえぎながら登っていく風景から、いつしか遅刻坂の愛称がつけられました。なお、新坂の名は「32.」と「52.」にもあります。

12.三べ坂(さんべざか)水坂(みずざか)

永田町二丁目、参議院議長公邸と旧永田町小学校の間を、日比谷高校グラウンドを右に見て日枝神社の方に下る坂です。
『新撰東京名所図会』には、「華族女学校前より南の方に下る坂を、世俗三べ坂といふ。昔時、岡部筑前守・安部摂津守・渡辺丹後守の三邸ありしより名づくといふ。」とあります。

また、坂上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂御門の御水番役をかねていたところから、この坂は水坂とも呼ばれました。

13.梨木坂(なしのきざか)

永田町一丁目、社会文化会館の西横を国立国会図書館を右手に見ながら上る坂です。『江戸紀聞』に「梨の木坂、井伊家の屋舗の裏門をいふ。近き世までも梨の木ありしに、今は枯れて其の名のみ残れり。」とあります。

14.富士見坂(ふじみざか)

永田町二丁目、衆参議院議長公邸の北側を赤坂見附の方に下る坂です。『江戸鹿子』には「赤坂松平出羽守の屋舗の前なり、空はれたる折は、遥かに富士山見ゆ、よってしかいふ。」とあります。なお、同名は「35.」「45.」にも出てきます。

15.三宅坂(みやけざか)皀莢坂(さいかちざか)・橿木坂(かしのきざか)

半蔵門外から、国立劇場前を桜田堀に沿って警視庁わき辺りまで下る坂です。東京でも代表的な坂の一つで、景勝の地として知られています。国立劇場のある辺りに三宅備前守の上屋敷があったことから三宅坂と呼ばれました。また、昔は堀端に皀莢の木や橿の木が多く茂っていたので皀莢坂とか橿木坂と呼ばれたこともあるようです。字は異なりますが、「さいかちざか」は「41.」にもあります。

16.諏訪坂(すわざか)達磨坂(だるまざか)

紀尾井町の旧グランドプリンスホテル赤坂の跡地前から、平河町二丁目の都道府県会館西横で富士見坂に交わる短い坂です。『新撰東京名所図会』に「北白川宮御門前にり赤坂門の方へ下る坂を名づく。もと諏訪氏の邸宅ありしを以てなり。」とあります。また、宮邸は元紀州藩邸でしたが、その表門の柱にダルマに似た木目があったために、達磨門と呼ばれ、門前の坂を達磨坂とも呼んだといわれています。

17.中坂(なかざか)

平河町一丁目、平河天満宮の西裏付近から社殿の南を報知新聞社わきまで下る坂です。元禄4年(1691)の江戸図には平河天満宮の西裏参道はまだ描かれていなく、宝永(1704-1710)以降の江戸図に現在のような道筋が現れて来ます。坂の名の由来ははっきりしませんが、中坂をはさんで北側に町屋、南側に武家屋敷があったことによるかも知れません。同名の坂は「39.」にもあります。

18.鍋割坂(なべわりざか)

隼町の国立劇場の北側を「内堀通り」から西に上り、ほぼ半ばからまた西に下る坂です。『御府内沿革図書』の図では、延宝元年の図には明示されていません。天保6年(1835)~文久元年(1861)の各図には、堀側から平河天満宮のわきに向かって一直線に通じています。その後、町筋の変動によって現在のようになったと考えられます。坂の名の由来は、鍋を伏せたような台地につくられた切り通しなので、この名が起こったといわれています。

鍋割坂の名は、「29.」にも出てきます。

19.貝坂(かいざか)甲斐坂(かいざか)

平河町一丁目3番地と4番地の間を北から南へ下る坂です。坂の名の由来については貝塚があったことから名付けられました。もともと半蔵門外一帯を古い地名では貝塚と呼んでいたことがあるようです。また、甲州街道の一里塚があったので土地の人が甲斐坂と呼んだといわれています。

20.清水谷坂(しみずだにざか)シダニ坂・シタン坂

麹町四丁目と紀尾井町の間を清水谷公園のほうに下る坂です。元禄4年(1691)の江戸図によると麹町通りから直接下る坂のように見えますが、その後の江戸図では現在とあまり変わりありません。
シダニ坂・シタン坂はシミズダニ坂をつめて呼んだ別名と考えられます。

21.紀尾井坂(きおいざか)清水坂(しみずざか)

喰違見附跡から清水谷公園に下る坂です。名のおこりは紀州家・尾張家・井伊家から来ていますが、坂下に清水谷があることから清水坂ともいわれています。明治11年、大久保利通が島田一郎らに襲われた「紀尾井坂の変」のあった場所です。

22.善国寺坂(ぜんこくじざか)

麹町三丁目と四丁目の間を「麹町大通り(新宿通り)」から下り、二番町に上る坂です。坂の名の由来は、昔麹町大通り寄りの坂上に「鎮護山善国寺」があったことによります。

23.永井坂(ながいざか)

一番町交差点から麹町一丁目と二丁目の間を上る坂です。昔この坂道を挟んでほぼ向き合って二つの永井姓の武家屋敷がありました。このことから永井坂の名が起きたといわれています。

24.五味坂(ごみざか)芥坂(ごみざか)・埃坂(ごみざか)・甲賀坂(こうがざか)

麹町保育園前の一番町2番地と三番町5番地の間の坂です。「ごみ」は五と二の転訛といわれています。『麹町区史』によれば、元は光感寺坂といっていたものが転訛して甲賀坂になったとも書かれています。

25.袖摺坂(そですりざか)

一番町交差点から一番町4番地と6番地の間を南へ上る坂です。昔この坂道は幅が狭く、行き交う人々の袖が触れ合ったことから名付けられたといわれています。

26.南法眼坂(みなみほうげんざか)

袖摺坂の西側、一番町6番地と8番地の間を北に上る坂です。『紫の一本』に「斎藤法眼という人の屋敷、この坂のきわにあり」と述べられていますが、これが坂の名の起こりと思われます。

27.行人坂(ぎょうにんざか)

南法眼坂からさらに北に下る坂です。『御府内備考』に「行人坂、古、某法印と称する行人この辺りに居するゆへこの名あり、また法印坂とも呼び法眼坂といふ。」と述べられているところから、坂の名がつけられたと思われます。なお、南法眼坂・行人坂と次の東郷元帥記念公園西側の東郷坂は、南北に続く上がり下がりの坂道で、古くはこの坂道全体を法眼坂と呼んでいたようです。

28.東郷坂(とうごうざか)

行人坂を下り切った所から、東郷元帥記念公園の西側を北に上る坂です。東郷元帥記念公園は、東郷平八郎元帥邸跡が区に寄贈されてもので、公園として区民に親しまれているものです。

29.鍋割坂(なべわりざか)

千鳥ケ淵ガ-デンロ-ドに面しているフェア-モントホテルの南側を内堀通りに抜ける坂道です。坂の名の由来は「18.鍋割坂」と同様に、鍋を伏せたような台地につくられた切り通しから、この名が起こったといわれています。

30.御厩谷坂(おんまやだにざか)

三番町の大妻学院前の交差点から南北に上がり下がりする坂です。昔徳川将軍家の厩舎があったことから、この名が起こったといわれています。『新編江戸志』に「今も紅梅勘左衛門殿やしきに、御馬の足洗いし池残りてあるなり」とあります。

31.帯坂(おびざか)切通し坂(きりとおしざか)

「靖国通り」の九段南四丁目と五番町の境界を、日本棋院を右手に見ながら南に上る坂です。怪談「番町皿屋敷」のヒロインお菊が、髪をふり乱し、帯をひきずりながらここを通ったという伝説から、帯坂の名がつけられたといわれています。また、寛永年間(1624-1643)の外堀普請後に市ヶ谷御門へ抜ける切通しとして作られたので、切通し坂の名もあります。

32.新坂(しんざか)

JR市ヶ谷駅から南に五番町を上る坂です。「日本テレビ通り」の北の入り口になります。この通りは、明治中頃の道路計画に含まれていたのですが、工事が遅れ、明治末年になってやっと実現しました。住民の待ち遠しかった気持ちが坂の名に表れているようです。

なお、新坂の名は「11.」と「52.」にもあります。

33.三年坂(さんねんざか)

五番町10番地と12番地の間を外堀の土手の方へ下る坂です。『新撰東京名所図会』に「三年坂は現今通称する所なるも、三念寺坂といふを正しとす。むかし三念寺といへる寺地なりしに因り此名あり。」とあります。

なお、同名の坂は「6.」にもあります。

34.一口坂(ひとくちざか)

「靖国通り」から、九段北三丁目と四丁目の間を新見附橋の方へ下る坂です。正しくは「いもあらいざか」というのだといわれています。いもあらいとは、疱瘡(ほうそう)のことを「いもがさ」とか「へも」と呼び、「疱瘡を洗う(治す)」という意味からきています。この近くに疱瘡に霊験あらたかな社でもあったのでしょうか。

同名の坂は「49.」にも出てきます。

35.富士見坂(ふじみざか)

富士見二丁目と九段北三丁目の間を、靖国神社の北側に沿って西に下る坂です。富士山がよく見通せることから、町名とともに坂の名になったことと思われます。なお、同名は「14.」「45.」にも出てきます。

36.二合半坂(にごうはんざか)

旧九段中学校前から「大神宮通り」に向かって下る坂です。『江戸砂子』に「日光山半見ゆる故ともいふとあり、富士山は一合より十合まで数ふる例に因り、日光山を五合に見つもりていへるにや」とあります。つまり五合の半分であれば二合半というわけでしょう。なお、二合半は一升の半分の半分すなわち四半分で、この分量は「こなから」といわれるところから、「こなからざか」とも呼ばれてきました。

37.冬青木坂(もちのきざか)万年坂(まんねんざか)

檎(もち)の木坂とも書きます。和洋女子学園前からホテルグランドパレスの南側を「目白通り」に下る坂です。『新編江戸志』に「此所を冬青木坂といふこといにしへ古びたるもちの樹有しより、所の名と呼しといへども、左にあらず、この坂の傍に古今名の知れざる唐めきて年ふりたる常盤木ありとぞ。目にはもちの木と見まちがへり。……」とあります。別名「万年坂」ともいわれています。いずれにしろ近くの古木に因んで名付けられたのでしょう。

38.九段坂(くだんざか)

九段下交差点から靖国神社の南側に上る坂です。九段の由来については、江戸城吹上庭園の役人の官舎が坂の途中に9棟並んでいたからとも、急坂で九つの段があったともいわれています。飯田町の坂であるところから、古くは「飯田町坂」、「飯田坂」などとも呼ばれていました。

この坂上は観月の名所として知られ、毎年一月と七月の二十六日を、二十六夜持ちと称し、人々が坂上で月の出を賞したということです。

39.中坂(なかざか)

冬青木坂と九段坂の中間にあります。名前の由来も、坂の位置から付けられたものと思われます。『江戸名所図会』などの絵を見ると、江戸時代は中坂が九段坂より大きく描かれています。町屋に並んでいる賑やかな中坂に比べて、九段坂は崖っぷちの細い坂道だったようです。同名の坂は「17.」にもあります。

40.小栗坂(おぐりざか)

三崎町一丁目と猿楽町二丁目の間を神田川の方へ上る坂です。昔近くに小栗某の屋敷があったことから、この名が付けられたといわれています。

幕末に活躍した小栗上野介の屋敷とは関係ありません。

41.皀角坂(さいかちざか)

小栗坂を上りきった所から、神田川沿いにJR御茶ノ水駅の方向に上る坂です。『新編江戸志』に「むかし皀角樹多くある故に坂の名とす。」とあります。

江戸時代には、坂の中程辺りに神田上水の懸樋が架けられていました。字は異なりますが、「さいかちざか」は「15.」にもあります。

42.男坂(おとこざか)

「とちの木通り」から、旧明治大学付属明治中学校・高等学校の東側を下る階段状の坂です。「43.女坂」に比べて険しい坂ということでしょう。

43.女坂(おんなざか)

「42.男坂」から、100mほど西側にある階段状の坂です。途中に踊り場があって休めるようになっていますので、男坂より上り下りが楽です。坂を下った先には、神田女学園があります。

44.錦華坂(きんかざか)

錦華公園の東側を、文化学院前の「とちの木通り」の方へ上る坂です。錦華公園の南側にあるお茶の水小学校の旧名「錦華小学校」から、坂の名がおこったと思われます。

45.富士見坂(ふじみざか)

靖国通りと錦華通りが合流する交差点から、明大通りに抜ける短い坂道です。昔はここからも富士山がよく眺められたのでしょう。

同名の坂は、「14.」と「35.」にもあります。

46.甲賀坂(こうがざか)

「お茶の水仲通り」にあるNTT駿河台の前から、「明大通り」の明大前交差点を通って山の上ホテル前にいたる坂です。
『新編江戸志』には「往昔、甲賀組の者多く居住せし故とも、また、光感寺の旧地をも記されたるが、一説に、往古、馬場昌宇という御医師の屋舗ありし故、戯れに世俗これを甲賀坂というよし里諺なり」とあります。

47.雁木坂(がんぎざか)

「明大通り」から杏雲堂病院南側を、ニコライ堂西門前に下る坂です。昔は急坂で雁木(丸太でつくった階段)が多く使われていたのでしょう。

48.池田坂(いけだざか)唐犬坂(とうけんざか)

「お茶の水仲通り」を、NTT駿河台の前からニコライ堂西門前に上る坂です。元禄の頃、坂を上りつめた日大病院の所に池田市之丞の屋敷があったので池田坂といわれました。また、その屋敷で唐犬(闘犬)が行われていたことから唐犬坂の別名もありました。
JR御茶ノ水駅の東口を出て目の前の道をほんの少し右に行くと、すぐ左へ入る道があります。この道が駿河台から小川町に下っていく坂が、池田坂です。
日大歯学部や理工学部、駿台予備校、ニコライ学院などが立ち並び、若い人たちで賑わう通りですが、江戸時代は中級の旗本屋敷がある、あまり人通りのないさびしい坂道でした。
そのような所で、当時珍しい唐犬を飼っていた旗本がいたので、唐犬坂という名が付いたと思われます。
「新編江戸志」には「むかし、池田市之丞殿屋鋪(やしき)に唐犬ありし故(ゆえ)名とす」とあります。犬は死んでも飼い主の屋敷はありますから、やがて飼い主の名から池田坂と呼ばれるようになったのでしょう。
このように坂の名は唐犬坂が先で、池田坂が後だと推測できるのは、坂の両側にある十数軒の旗本屋敷がどれも似たりよったりで、特に池田屋が目立つ理由はないからです。
江戸の絵図を見ると、雁木坂から来て池田坂と交わる角に池田屋の屋敷があります。元禄時代には「池田コ太郎」、文化・文政ごろには「池田吉十郎」、天保5年(1843年)にも「池田」とありますが、幕末の嘉永に蒲原孫之丞、文久に豊田藤之進と代わっています。
今、ここにたたずむと、工事中のニコライ堂が眼前に見えます。にぎやかな池田坂を下ると、坂下の右側に、昭和6年、聖橋詰めから移転して来た太田姫稲荷神社がひっそりと鎮座しているのが、不思議な感を与えます。

49.淡路坂(あわじざか)一口坂(いもあらいざか)・相生坂(あいおいざか)・大坂(おおさか)

聖橋の南詰から神田川に沿って東に下る坂です。江戸時代、坂上西側に鈴木淡路守の屋敷があったことから、この名が呼び慣わされたのでしょう。

坂上東側には太田姫稲荷神社がありましたが、鉄道線路拡幅のため昭和6年に移転し、現在は神田駿河台一丁目にあります。この神社は、太田道灌が娘の疱瘡(いもあらい)の治癒を祈願して、山城国(京都府)一口の里の稲荷を勧請して建立し、一口稲荷と呼んだと伝えられています。このことから、この坂には一口坂の別名もあります。なお、同名の一口坂は「34.」にあります。
別名に相生坂・大坂などもありましたが、現在は神田川の向い側の坂(文京区との境界)が相生坂と呼ばれています。

50.紅梅坂(こうばいざか)幽霊坂(ゆうれいざか)・光感寺坂(こうかんじざか)・埃坂(ごみざか)

「本郷通り」から、ニコライ堂の北側を「お茶の水仲通り」の方に上る坂です。もともとは「51.幽霊坂」とつながっていた坂道でしたが、昭和の始めに「本郷通り」が開通して、途中で分断されてしまいました。ですから幽霊坂の別名もあります。

昔、この坂を上りつめた辺りに紅梅で知られた光感寺があったことから、紅梅坂または光感寺坂とも呼ばれていました。なお、「埃坂」(ごみざか)などの古名もあったようです。これらと同名の坂は「24.」・「51.」にもあります。

51.幽霊坂(ゆうれいざか)

旧日立製作所跡地の南側を、「本郷通り」から「外堀通り」の方向に下る坂です。由来ははっきりしませんが、坂の両側は大木が繁って、人通りも少なく、淋しい道であったので、俗に幽霊坂と呼ばれました。「50.紅梅坂」の別名とも同じです。

52.新坂(しんざか)

「本郷通り」から、淡路公園の南側を「外堀通り」の方向に下る坂です。明治維新前は備後福山藩阿部家の敷地でしたが、明治になってその中央に道路を通してできた坂道で、新しい坂ということから名付けられました。
明治20年ごろニコライ堂建築の足場から撮った写真には、阿部家の塀の中央部分が道を通すために切り開かれている様子が、はっきり写っています。なお、同名の坂は「11.」と「32.」にもあります。

53.観音坂(かんのんざか)

「本郷通り」から、全電通労働会館とホテル竜名館の間を「外堀通り」に抜ける下る坂です。寛永の頃から元禄の頃までホテル竜名館の所に茅浦観音寺があったことから呼び慣わされた坂の名です。

54.明神男坂(みょうじんおとこざか)明神石坂(みょうじんいしざか)

神田神社の境内にある明神会館のわきから、東に下る石段の坂です。『江戸名所図会』にも登場し、江戸時代には「明神石坂」、「石坂」、「明神東阪」などと呼ばれていました。高台で見晴らしが良かったため、風光明媚な場所として錦絵にも描かれています。明治時代に入ると、「明神男坂」と呼ばれるようになりました。

55.昌平坂(しょうへいざか)団子坂(だんござか)

外神田二丁目2番地西と湯島聖堂との間、千代田区と文京区の境界線上にある坂です。昌平の名は、湯島聖堂に祀ってある孔子の生まれた中国魯の国の昌平郷にちなんでつけられました。別名の団子坂は、急坂で団子のように転ぶということから、住民が呼んだ名だということです。

湯島聖堂南側の神田川沿いの坂も昔は昌平坂と呼ばれていましたが、今は相生坂と呼ばれています。やはり文京区との境界線上の坂です。

56.正和坂(しょうわざか)

麹町小学校の北側を一番町の境まで下る坂です。太平洋戦争中にこの地域に正和会という隣組があったことなどが坂の名の由来と関係があるかも知れません。なお、同小学校の東側の坂は正和新坂と呼ばれています。

お問い合わせ

地域振興部文化振興課文化財係

〒100-0012 千代田区日比谷公園1-4 日比谷図書文化館文化財事務室

電話番号:03-3502-3348(平日 午前9時30分~午後6時15分)

ファクス:03-3502-3361

メールアドレス:bunkashinkou@city.chiyoda.lg.jp

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