更新日:2025年3月26日

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町会の成り立ち

地域自治活動の担い手として発展してきた町会は、昭和22(1947)年に廃止されるという歴史を経ています。

江戸時代から明治期

町会は江戸時代から5人組制として、町人の日常生活に関する自治が委ねられ共同責任を負っていました。この制度は、明治維新後の明治政府によって解体され、その後はお祭りやお祝いだけを行うもの、商店会方式のものに移行していきました。

明治30年代に入り、地域の有志による組織、婦人会などの組織が芽生え始め、明治33(1900)年には地域の衛生環境改善を図るための内務省令が出され、町内に衛生組合が設立、翌34年に婦人会の始まりである愛国婦人会が創設され、戦没者遺族の救護、託児所の経営などの活動が始まりました。

明治37年ごろには、日露戦争死者の家族を慰める町内有志の会などへと組織の広まりが見られ、千代田区でも翌38年に神田区婦人会が創設されています。

大正期

大正時代に入り、関東大震災を契機として被災地を中心に、大震災に備えての自警団が自主的に組織され、その後町内の親睦を目的とした町会へと移行した例が多く、千代田区においても大震災後から昭和の初期にかけて多くの町会が自主的に設立されました。

昭和期(初期から終戦まで)

このように、自発的に芽生え活動しつつあった町会は、昭和期に入り、満州事変、日中戦争、第二次世界大戦へと戦時色が強まるにつれ、官僚支配、国民総動員体制の末端組織として利用され、国民生活の隅々まで監視と統制を行う機関と化していきました。

東京市は、満州事変後の昭和7(1932)年から8年にかけて、町会の育成強化にのりだし、町会役員の表彰が始められました。また、東京市内の町会に対する悉皆調査を行い指導も始めています。

一方、国では選挙腐敗を粛正するため、町会を組織とする選挙粛清委員会を昭和11年5月の内務省通牒によって各区に設置しました。ここに町会に対する区の指導が加えられることになりました。

さらに昭和12年には「防空法」が制定されたことにより、軍部は防空の名のもとに町会に対する関与・指導にのりだします。この年、東京では軍部の支援のもとに女性を対象とした国防婦人会が結成されています。

国、地方、軍部ともどもに戦時体制整備のために上から町会に対し組織強化の関与、指導がさらに強められていきました。

昭和13年、東京市は「東京市町会規準」を定め、町会を区の下部組織として位置付けるとともに、1町につき1町会とする町会整備を行いました。

千代田区でも麹町区、神田区においてそれぞれ町会整備が行われ、ほぼ現在の町会が形成されました。また、麹町、神田それぞれに町会連合会が設立されました。

昭和15年、内務省訓令「部落会、町内会等整備要領」が発せられました。これは部落会、町内会を行政の下部組織として位置付けるもので、ここに初めて部落会、町内会が行政の下部組織として全国に認知されるのです。

婦人会も17年大日本婦人会として全国的に組織の一本化・強化が図られ、戦時体制下のさまざまな奉仕活動を強いられていきました。

戦局が一段と深刻さを増す昭和18年、「市制町村制」の一部改正が行われ、市町村長の事務の一部を町会などの組織の長に委ねることができることとなりました。千代田区でも町会長は名実ともに区行政の補助的末端機関となりました。

同年、東京市も東京都に改まり、都政が敷かれ一層の中央集権化が図られました。

都は「隣組の戦時体制確率要綱」を定め、町会、隣組など戦時体制への機能強化を図りました。特に隣組は、食料・衣料などの日常生活用品の必需物資の配給にとどまらず、貯蓄や勤労動員、出征兵士の見送りといった区民生活のすべてを規制する強権を持ち、戦争協力を強制する大きな力を持つ暗く長い戦時生活を強いる存在となっていきました。

昭和期(終戦後)

町会組織の廃止(ポツダム政令第15号)

昭和20年8月に終戦を迎えましたが戦時体制はしばらく続きました。それは、戦後の混乱期の配給や物資の供出など国民の生活を秩序をもって遂行していくためには、全国市町村にあまねく張りめぐらされた町会などの組織を利用せざるを得なかったことによります。

昭和21年「市制町村制」の一部改正が行われ、町会長などの組織の長に報酬が支払われることになります。同年、連合国軍総司令部(GHQ)は、こうした動きに対し、再び日本が軍国主義、国家主義へ回帰することへの懸念を抱き、町内会、部落会などの廃止命令を出しました。これを受け日本政府は、昭和22年4月1日をもって町会などの組織を廃止する決定を下しました。

GHQは占領下における日本の地方政治から地方行政の末端に至るまで戦時統制機構の一掃をより徹底するため立法措置にふみきり、22年5月「町内会、部落会又はその連合会等に関する解散、就職禁止その他の行為の制限に関する件」(政令第15号)を公布施行します。ここに戦時体制下における行政の末端機関としての町内会、部落会、隣組は制度として廃止されました。

区でも、昭和22年5月の町会の廃止とともに町会事務所は廃止され、これまで町会長が行っていた事務は、各町会のブロックであった連合町会単位に設置した区の出張所に統合・吸収されました。それが現在の番町(現:麹町)、富士見、神保町、神田公園、万世橋、和泉橋の6出張所となりました。

このポツダム政令第15号は、旧町内会などの役職員は同種の仕事に今後4年間はつけない、行政の同種の組織利用は禁止、町内会等の財産は処分するなどが柱で、違反者には懲役、禁固が伴う厳しいものでした。

地域で存続するさまざまな活動

占領下におけるこうした厳しい措置にも関わらず、多くの組織が防犯協会、交通協力会、日赤奉仕団、共同募金委員会などとして全国ほとんどの地域で存続しました。

それは、終戦による国土の荒廃や戦後処理に追われる国や地方が、戦後の混乱する国民生活の隅々まで目が行き届かない状況のなかでは、住民が自らの地域生活を守るために何らかの住民自衛組織が不可欠であったことによります。

千代田区においても同様ですが、昭和22年から24年にかけて婦人層の間で千代田区婦人会、万世母の会、神田母の会が結成され、混乱期の時代の要請に応じた活動を行っていました。

特に婦人部の活動の中で、見逃せない赤十字奉仕団については、昭和25年11月に千代田区赤十字奉仕団が結成され、その後、番町、富士見、神保町、神田公園、万世橋、和泉橋の6分団108班で運営されました。

この奉仕団の活動は、各種募金活動など多岐にわたりましたが、その中でも献血奉仕活動は、昭和26年から40年間以上も続けられ、平成5(1993)年に秋葉原駅前広場に常設の献血センターが設置されるに至っています。

このように婦人団体の活動も多岐にわたっていることから、団体間の相互協力、連携を強化するため、昭和28(1953)年7月に千代田区婦人団体協議会を結成し、地域福祉活動に積極的に取り組み、その活動に対し昭和29年12月に都内唯一の団体として法務大臣の表彰を受けています。

町会再編の動き

昭和28年、千代田区は「千代田区町会組織運営基準」を作成し区の考え方を示しました。

新たな町会の性格は、地域の生活共同体として「公共的団体」として位置づけ、区長に付与されている公共的団体に対する総合調整を図るための手引き資料とし、あわせて町会運営の参考資料とするための基準を発表するというものでした。

昭和30年代から40年代

昭和30(1955)年から31年にかけ、6つの出張所ごとに連合町会が設立されていますが、戦時中のような各町会との上下関係、指揮命令などのようなものは存在していません。

こうした動きは、東京都全体へと広がりを見せ、昭和32年に住民自治の民主的なあり方、そのための町会の性格や運営、地域への愛郷精神の高揚、地域福祉の増進などを目的とした「(社会福祉法人)東京都自治振興会」が発足しました。

このように町会は、自主的な自治団体として位置付けられ地域の親睦のほか環境美化、まちづくりなど幅広く地域活動に関わっていくようになります。

昭和30年代は、戦後の復興期を経て生活水準も向上した時期であり、千代田区においても人口は12万人を超え、地域における町会などの自治組織も組織強化や活動内容の充実が図られた時期でもありました。

しかし、30年代後半から未曾有といわれる高度経済成長を歩み始め、膨張を続ける日本経済は一極集中に拍車がかかり、都心部への急激な人口流入による新住民の増加と郊外への流出による旧住民の減少という住民構成の変動が続き、地域社会に深刻な影響を与えるに至りました。

とりわけ激しい人口の流動は、千代田にとって人口減少へとつながり、町会構成員の減少に加え、町会非加入の新住民の増加など、千代田の伝統的な地域社会の基盤を揺るがしかねないものでした。

昭和44年、内閣総理大臣の諮問機関である国民生活審議会は、こうした課題に対応するため、地域住民の新たな連帯・連携のもとに生活の場としての地域社会を構築する「コミュニティ~生活の場における人間性の回復~」を発表しています。

千代田区では、それ以前から人口流出に歯止めをかける区立住宅の建設や地域のふれあい・連帯の場として、区民会館の整備などに努めてきました。また、町会などの運営や活動を活性化するため側面的な支援の強化をも図ってきました。しかし、定住人口減少に一層の拍車をかけたバブル経済が崩壊した後も、人口減少傾向は続き、町会構成員の減少に加え加速化する高齢社会の振興など、地域活動を担う町会役員不足や後継者不足といった深刻な不安を与えています。

昭和40年代に入り、地下鉄建設、東北新幹線建設、広場獲得、濠埋め立て、日照などの環境に係わる住民運動が多く発生しています。関係者の話し合い・調整が困難なものが多く、解決には長期間の日数を要しましたが、町会をはじめ区議会などの努力により一定の成果を得て解決してきています。

昭和50年から現在(新編区政史編纂時)にかけて

近年の著しい業務地化の進展による急激な定住人口の減少と昼夜間人口の格差の拡大は、町会のコミュニティ活動に大きな影響を与えており、町会によっては構成員の減少や高齢化のため、企業やサラリーマンの参加を促している地域も多く、また、企業にも直接関係のある防犯・防災・ごみ問題・交通安全などについては、積極的に参加を求めています。

また、マンションや集合住宅に住む比較的新しい住民が地域に溶け込みやすいように、町会の祭礼やこどもまつりへの参加を呼びかけている地域も多いです。

出典:新編千代田区史(平成10年3月発行)より

(注意) 編纂・発行時からの時間の経過に伴い、一部修正などをしています。

お問い合わせ

地域振興部コミュニティ総務課コミュニティ係

〒102-8688 東京都千代田区九段南1-2-1

電話番号:03-5211-4180

ファクス:03-3264-7989

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