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更新日:2025年3月26日
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江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組(おおばんぐみ)」と呼ばれる旗本(はたもと)たちを住まわせました。ここから、「番町(ばんちょう)」という地名が生まれました。
江戸城外郭門(がいかくもん)のひとつである市谷御門(いちがやごもん)(現・JR市ヶ谷駅付近)があったこの町は、旗本屋敷が整然と立ち並んでいたようです。明治時代にこの地に付けられた町名は土手三番町(どてさんばんちょう)で、五番町(ごばんちょう)と改称されたのは昭和十三年(1938年)のことです。
江戸時代は城を守る人々が起居した番町ですが、明治期には華族や官吏が住む町へと移り変わっていきます。また、ほかの番町と同様、この界隈(かいわい)も文人たちに愛された町でした。
フランスの風刺画家であったビゴーや、「婦系図(おんなけいず)」「歌行灯(うたあんどん)」などで有名な小説家の泉鏡花(いずみきょうか)も、明治時代の一時期ですがこの町の住人でした。夏目漱石(なつめそうせき)の門下生で、「山高帽子」「ノラや」などの作品で知られる小説家・内田百間(注意1)(うちだひゃっけん)は、昭和十二年(1937年)からの十年あまりをここ五番町で過ごしました。数多くの随筆で知られる百間は、「東京焼盡(とうきょうしょうじん)」のなかで、戦場ルポライターのような確かさで、空襲のさまを描写しています。彼の邸宅跡地には、現在、番町会館が建っています。また、昭和二十九年(1954年)に「驟雨(しゅうう)」で芥川賞を受賞した小説家・吉行淳之介(よしゆきじゅんのすけ)もこの五番町の住人でした。
落ち着いた風情(ふぜい)を色濃く残す五番町の趣(おもむき)は、こうした偉大な文人たちによって培われて(つちかわれて)きたものなのです。
注意1:内田百間の「間」の字は、本来は門構えに「日」でなく、「月」が入る字です。
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