トップページ > 暮らし・手続き > 地域活動・コミュニティ > 千代田区町名由来板 > 町名由来板:町名から探す > 町名由来板:神田明神下御台所町(かんだみょうじんしたおだいどころまち)
更新日:2025年3月26日
ここから本文です。
神田神社裏手に位置するこの地域は、江戸の町が生まれた当初、幸龍(こうりゅう)寺や万隆(ばんりゅう)寺などが軒を連ねる寺社地でした。町の様相が一変したきっかけとなったのは、明暦(めいれき)三年(1657年)一月十八日に発生した「明暦(めいれき)の大火(たいか)」(振袖火事)です。
「明暦の大火」は、およそ二日間にわたって江戸のまち全体の六割ほどを焼き尽くし、十万人余りの命を奪った大災害です。このとき、江戸城も天守閣(てんしゅかく)をはじめ、多くの建物を焼失しました。被害の甚大さに驚いた江戸幕府は、火に強い町づくりに乗り出しました。幕府の火災対策の一つとして「延焼を防ぐため、大きな寺社をなるべく市中の外側に移転させる」という方針があったのです。かつては寺が立ち並んでいた神田神社の裏手も、この新方針に沿って城内の御台所御賄方(おだいどころおまかないかた)の武家屋敷として再建されたのでした。御台所町(おだいどころまち)という旧地名は、このときに始まるものと考えられています。
さらに寛文(かんぶん)十二年(1672年)、この場所に住んでいた武士たちの希望もあって町内に「町屋(まちや)」(商人と職人の住まい)も形成されました。以降、御台所町は町人の町として発展をとげることになりました。文政(ぶんせい)七年(1824年)の「江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)」には、町内に足袋屋(たびや)や呉服屋(ごふくや)、小間物屋(こまものや)があったことが記されています。時代が下って明治二年(1869年)には、神田明神下御賄手代屋敷(かんだみょうじんしたおまかないてだいやしき)を合併し、神田御台所町(かんだおだいどころまち)と呼ばれるようになりました。
お問い合わせ
地域振興部コミュニティ総務課コミュニティ係
〒102-8688 東京都千代田区九段南1-2-1
電話番号:03-5211-4180
ファクス:03-3264-7989
メールアドレス:komisoumu@city.chiyoda.lg.jp
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください