トップページ > 暮らし・手続き > 地域活動・コミュニティ > 千代田区町名由来板 > 町名由来板:町名から探す > 町名由来板:駿河台東部(するがだいとうぶ)
更新日:2025年3月26日
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「駿河台(するがだい)」は元来、本郷(ほんごう)・湯島台(ゆしまだい)と地続きで、「神田山(かんだやま)」と呼ばれる丘陵でした。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷(ひびや)入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋め立てによって平川(ひらかわ)(現・飯田橋(いいだばし)付近から一ツ橋(ひとつばし)を通り、海に流入していたといわれている)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発(ひんぱつ)しました。そこで、隅田川(すみだがわ)に通じ、江戸城の外堀(そとぼり)の役目も果たす「神田川」が分流として開削されたのです。こうしてこの界隈(かいわい)は、本郷・湯島台から切り離され、独立した台地となりました。
元和(げんな)二年(1616年)、家康が駿府(すんぷ)で没すると、家康直属の家臣だった旗本(はたもと)(駿河衆(するがしゅう))がその任を解かれて江戸に戻りました。駿府から帰った駿河衆が、江戸城に近く富士山が望めるこの地に多く屋敷を構えたことから、駿河台と呼ばれるようになりました。
現在の駿河台三丁目(するがだいさんちょうめ)と四丁目(よんちょうめ)にあたるこの地域は、明治時代は三つの町で、駿河台北甲賀町(するがだいきたこうがちょう)、駿河台南甲賀町(するがだいみなみこうがちょう)、駿河台東紅梅町(するがだいひがしこうばいちょう)と名付けられていました。甲賀という町名は、忍者で有名な甲賀者が多く住んだからとも、また甲賀者が勤める火消役(ひけしやく)屋敷があったからともいいます。紅梅町は、紅梅の大樹があった紅梅坂の名称とともに誕生した町名といわれています。
大きなドーム型のニコライ堂(日本ハリストス正教会教団復活大聖堂)は、幕末から日本で布教を行っていたニコライ大主教が七年の歳月をかけ、明治二十四年(1891年)に完成させたもので、以来、この町のシンボル的存在になっています。関東大震災で被害を受けたものの、昭和四年(1929年)に復興され、国の重要文化財に指定されました。
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