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更新日:2025年3月26日
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「有楽町」の名前は、戦国時代に活躍した武将、織田信長の弟、織田有楽斎(おだうらくさい)(長益(ながます))に由来します。茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと、徳川家康方に属し、数寄屋橋(すきやばし)御門の周辺に屋敷を拝領しました。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたのです。その「数寄屋橋御門」の名前は、外堀(そとぼり)を渡ると数寄屋町に通じることから生まれました。江戸時代、大岡越前(おおおかえちぜん)による、いわゆる「大岡政談」で有名な南町奉行所(みなみまちぶぎょうしょ)があったのもこのあたりです。
ぼくにとって戦前の有楽町は“高級な街”だった。朝日・毎日・読売の大新聞が毎日、知識の生産をつづけている。日劇(日本劇場)や東京宝塚劇場などの高級劇場が林立している。「山手線の環外(かんがい)は東京でも田舎だ」といわれていた。その環外に住むぼくにとって、有楽町はまさに“遠くに在りて思うもの”だった。
それが突然「きみたちもおいでよ」という庶民的な街に変質したのは、なんといっても大阪からの「そごうデパート」の進出である。昭和三十二年(1957年)五月のことで、エスカレーターやエアカーテンが珍しかった。そして一躍その変貌(へんぼう)ぶりをアピールしたのが、フランク永井の歌う「有楽町で逢いましょう」だ。本当はデパートのCMソングだそうだが、そんな気配はみじんもない。銀座と並んで日本の街にした。ちかくの都庁に勤めていたぼくは「すし屋横丁」の常連であり、いまでもその跡を懐かしく訪ねる。現実を超えて、有楽町はぼくの脳裡(のうり)にしっかり根づいている。
童門 冬二
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