更新日:2014年11月11日

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町名由来板:一番町(いちばんちょう)

地図

  • 設置年月日:平成16年2月29日
  • 所在地:一番町21番地

町名由来板

江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に大番組(おおばんぐみ)に属する旗本(はたもと)たちを住まわせました。ここから「番町(ばんちょう)」という地名が生まれ、この界隈(かいわい)には多くの武家屋敷がありました。
明治になると、中央官庁や皇居に近接したこの地には、政府役人の官舎や華族(かぞく)の屋敷が並び、山県有朋(やまがたありとも)の邸宅もありました。
明治五年(1872年)、英国大使館(当時は公使館)がこの地に移ってきます。維新の志士たちと深い交流をもち、のちに駐日英国公使として日英同盟に尽力したアーネスト・サトウも、ここで多くの年月を過ごしました。
英国大使館の裏手には、明治三十三年(1900年)、津田梅子(うめこ)が女性の自立をめざした英語学校・女子英学塾を創立しました。これが現在の津田塾大学の前身です。
文化人たちにも一番町は愛されていました。小説家、劇作家として名高く、画家でもあった武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)はこの地に生まれ、結婚してからもしばらくその屋敷に住んでいました。「荒城(こうじょう)の月」「花」などの歌曲で知られる作曲家の滝廉太郎(たきれんたろう)や、「からたちの花」「赤とんぼ」などを作曲し、西洋音楽の普及と発展に努めた山田耕筰(こうさく)もまた一番町の住人です。昭和三十二年(1957年)に制定された「千代田区歌」は、佐藤春夫(さとうはるお)が作詞、山田耕筰が作曲したもので、英国大使館前に区歌の碑が残されています。
昭和十三年(1938年)、かつての五番町(ごばんちょう)と上二番町(かみにばんちょう)、元園町一丁目(もとぞのちょういっちょうめ)の一部が一緒になって、現在の一番町となりました。
新たな文化を積極的に取り入れ、近代思想の礎(いしずえ)を築いた町、それが一番町なのです。

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