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更新日:2014年11月11日

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町名由来板:神田明神下御台所町(かんだみょうじんしたおだいどころまち)

地図

  • 設置年月日:平成15年3月31日
  • 所在地:外神田二丁目5番

町名由来板

神田神社裏手に位置するこの地域は、江戸の町が生まれた当初、幸龍(こうりゅう)寺や万隆(ばんりゅう)寺などが軒を連ねる寺社地でした。町の様相が一変したきっかけとなったのは、明暦(めいれき)三年(1657年)一月十八日に発生した「明暦(めいれき)の大火(たいか)」(振袖火事)です。
「明暦の大火」は、およそ二日間にわたって江戸のまち全体の六割ほどを焼き尽くし、十万人余りの命を奪った大災害です。このとき、江戸城も天守閣(てんしゅかく)をはじめ、多くの建物を焼失しました。被害の甚大さに驚いた江戸幕府は、火に強い町づくりに乗り出しました。幕府の火災対策の一つとして「延焼を防ぐため、大きな寺社をなるべく市中の外側に移転させる」という方針があったのです。かつては寺が立ち並んでいた神田神社の裏手も、この新方針に沿って城内の御台所御賄方(おだいどころおまかないかた)の武家屋敷として再建されたのでした。御台所町(おだいどころまち)という旧地名は、このときに始まるものと考えられています。
さらに寛文(かんぶん)十二年(1672年)、この場所に住んでいた武士たちの希望もあって町内に「町屋(まちや)」(商人と職人の住まい)も形成されました。以降、御台所町は町人の町として発展をとげることになりました。文政(ぶんせい)七年(1824年)の「江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)」には、町内に足袋屋(たびや)や呉服屋(ごふくや)、小間物屋(こまものや)があったことが記されています。時代が下って明治二年(1869年)には、神田明神下御賄手代屋敷(かんだみょうじんしたおまかないてだいやしき)を合併し、神田御台所町(かんだおだいどころまち)と呼ばれるようになりました。

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