更新日:2018年1月1日

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町名由来板:猿楽町(さるがくちょう)

地図

  • 設置年月日:平成15年12月24日
  • 所在地:神田猿楽町二丁目3番

町名由来板

猿楽(さるがく)(のちの能楽)は、室町時代以降、多くの武士たちに楽しまれるようになりました。なかでも観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)の流れを受け継ぐ「観世座(かんぜざ)」は、江戸幕府から手厚い保護を受けていました。その家元観世太夫(かんぜだゆう)や一座の人々の屋敷が、現在の神田神保町(かんだじんぼうちょう)一丁目~二丁目から西神田(にしかんだ)一丁目~二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町(さるがくちょう)」という名が生まれました。
この界隈(かいわい)は江戸時代、おもに武家屋敷が軒(のき)を連ねていました。もともと武家地には町名が付けられていなかったため、猿楽町という町名が正式に誕生したのは、明治五年(1872年)のことになります。
その翌年、神田錦町(かんだにしきちょう)にあった錦坊学校(きんぼうがっこう)の分校が、現在の猿楽町一丁目内に設立されました。その後、錦華学校(きんかがっこう)と名前を変更したこの学校で学んだのが、近代日本の文壇に大きな足跡を残した夏目漱石(なつめそうせき)です。漱石はこの小学校で学年を飛び越えて進級するほどの秀才ぶりを発揮したといわれています。
ところで、猿楽町と駿河台(するがだい)の間に、男坂(おとこざか)・女坂(おんなざか)と呼ばれる二つの坂があります。いずれも大正十三年(1924年)の区画整理でつくられた坂で、男坂は七十三段、女坂は八十二段を数えます。どちらの坂も一気に上ると息が切れるほどの急傾斜ですが、女坂の途中には踊り場があり中休みできるのに対して、男坂のほうは踊り場がなく、より厳しい上りを強いられます。そのため、七十三段の坂は「男」、少しゆるやかで長い坂は「女」と呼び習わされるようになりました。

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