更新日:2014年11月11日

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町名由来板:三番町(さんばんちょう)

地図

  • 設置年月日:平成16年3月19日
  • 所在地:三番町18番地(東郷公園)

町名由来板

江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組(おおばんぐみ)」と呼ばれる旗本(はたもと)たちを住まわせました。ここから、「番町(ばんちょう)」という地名が生まれました。
江戸時代、この界隈(かいわい)には武家屋敷が立ち並んでいました。また、御厩谷坂(おんまやだにさか)の坂下から西に延びる谷筋には、かつて幕府の厩(うまや)(馬小屋)があったと伝えられ、江戸城のお堀端(ほりばた)近くの警備を武士たちがしっかり固めていた様子が想像できます。
寛政(かんせい)五年(1793年)、塙保己一(はなわほきいち)が、この地に幕府の許可を得て和学講談所(わがくこうだんしょ)を開きました。保己一はわが国の古文献を集めた「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」という書物の編纂(へんさん)で知られる学者です。幕末の兵学者村田蔵六(むらたぞうろく)(のちの大村益次郎(おおむらますじろう))もこの地に蘭学(らんがく)の鳩居堂(きゅうきょどう)を開きました。さらに明治十年(1877年)には、漢学者三島中洲(みしまちゅうしゅう)が二松学舎(にしょうがくしゃ)(のちの二松学舎大学)を開くなど、文教の気風が受け継がれます。
明治になると、かつて武家屋敷であったところは、伯爵(はくしゃく)・子爵(ししゃく)などの華族(かぞく)や政府役人の邸宅地となりました。
日露戦争の折、日本海海戦で連合艦隊(れんごうかんたい)を率いた東郷平八郎(とうごうへいはちろう)も、明治十四年(1881年)から昭和九年(1934年)までの五十三年間を過ごしています。邸宅跡は彼の事跡を記念して東郷元帥(げんすい)記念公園になり、四番町(よんばんちょう)との境の坂は「東郷坂(とうごうざか)」と命名されています。
また、「墨東綺譚(ぼくとうきだん)(注意1)」で有名な永井荷風(ながいかふう)や、「武蔵野(むさしの)」の国木田独歩(くにきだどっぽ)などの文学者も三番町の住人でした。与謝野晶子(よさのあきこ)の夫、与謝野鉄幹(よさのてっかん)も一時この地に住み、雑誌「明星(みょうじょう)」を創刊しました。
錚々(そうそう)たる人物の顔ぶれがそろう三番町です。国政の中心に近く、落ち着いた町並みを残したこの地だったからこそ、彼らに愛されたのでしょう。

注意1:墨東綺譚の「墨」の字は、本来はさんずいに墨という字です。

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