更新日:2014年11月11日

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町名由来板:紀尾井町(きおいちょう)

地図

  • 設置年月日:平成16年3月12日
  • 所在地:紀尾井町2番(清水谷公園)

町名由来板

江戸時代の初期から、この界隈(かいわい)には大名屋敷が置かれていました。安政(あんせい)三年(1856年)の絵図にも見られるとおり、紀伊(きい)和歌山藩徳川家上屋敷(かみやしき)、尾張(おわり)名古屋藩徳川家中屋敷(なかやしき)、近江彦根(おうみひこね)藩井伊(いい)家中屋敷がありました。
紀尾井町(きおいちょう)の名前は、紀伊徳川・尾張徳川、彦根井伊の三家よりそれぞれ一字ずつ取って名付けられたものです。また、紀尾井坂より南、弁慶橋(べんけいばし)あたりまでの低地は、清水がわき出ることから「清水谷(しみずだに)」と呼ばれていました。
これらの大名屋敷は、明治五年(1872年)、新たに麹町紀尾井町(こうじまちきおいちょう)に生まれ変わり、明治十一年(1878年)、麹町区に所属します。明治以降の紀尾井町は、政府用地、北白川宮(きたしらかわのみや)邸(のちの李王(りおう)邸、現・赤坂プリンスホテル)や伏見宮(ふしみのみや)邸(現・ホテルニューオータニ)、行政裁判所(現・城西大学)、尾張徳川邸(現・上智大学)などになりました。
明治七年(1874年)、赤坂喰違(くいちがい)付近で岩倉具視(いわくらともみ)が襲われ、同十一年(1878年)には清水谷前の道で、時の内務卿(ないむきょう)大久保利通(おおくぼとしみち)が暗殺されました。事件後、現場近くの地に大久保利通の哀悼碑が設置され、のちに整備されて清水谷公園となりました。
明治四十四年(1911年)、町名変更により紀尾井町と改め、昭和九年(1934年)、区画整理により北側の一部が麹町五丁目、麹町六丁目に編入されました。
江戸時代は大名の、昭和初期までは宮家の閑静な邸宅地であった紀尾井町は、現在、高級ホテルやオフィスビルが立ち並び、皇居、政治の中心地である永田町(ながたちょう)、外国使臣を迎える迎賓館(げいひんかん)などに囲まれ、都心の中の憩いの場を提供しています。

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