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更新日:2016年1月22日

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町名由来板:神田司町一丁目(かんだつかさまちいっちょうめ)

地図

  • 設置年月日:平成16年2月28日
  • 所在地:内神田二丁目11番

町名由来板

ここは「神田司町一丁目(かんだつかさまちいっちょうめ)」と呼ばれ、江戸時代には商人や職人の家が立ち並んでいた町でした。安政(あんせい)三年(1856年)の地図を見ると、三河町(みかわちょう)や皆川町(みながわちょう)、蝋燭町(ろうそくちょう)といった町があります。
このうち三河町は、天正(てんしょう)十八年(1590年)の徳川家康入府のとき、一緒に来た三河(現・愛知県)の武士たちが住んだ場所で、慶長(けいちょう)年間(1596年~1615年)にこの武士が下谷(したや)に移ったあとにできた町です。
皆川町は、江戸初期に皆川山城守(みながわやましろのかみ)広照(ひろてる)の屋敷があったといわれます。のち寛永(かんえい)のころ(1624年~1644年)から豊後府内(ぶんごふない)藩松平(まつだいら)家の屋敷に、貞享(じょうきょう)四年(1687年)からは陸奥福島(むつふくしま)藩堀田(ほった)家の屋敷地になっています。ここが町屋になったのは、元禄(げんろく)十年(1697年)ごろで、町名は皆川山城守にちなんで名付けられたといわれています。
蝋燭町は、慶長十七年(1612年)に成立した古い町で、寛永のころ能楽師の幸若太夫(こうわかだゆう)の拝領地であったところが含まれてできました。町名はこのあたりに蝋燭づくりの職人が住んでいたことに由来しています。江戸中期以降には、武家屋敷がなく職人と商人の町として栄えてきました。時代を経てもそれは変わりなく、呉服関係、印刷・製本などの職人たちが多く住み、とくに建築関係では、町内の職人だけで家が一軒建てられたといわれています。また、商人も大店(おおだな)ではなく、生活に必要な八百屋や魚屋などが多く、人情味豊かな町でした。
明治に入ると、東京全体の町割が刷新され、この界隈(かいわい)も明治六年(1873年)までに、三河町二丁目、皆川町、神田蝋燭町、旭町に再編されました。さらに関東大震災後、これらをまとめて新しい町をつくることが決まり、昭和十年(1935年)、四つの町が合併して「司町一丁目」が誕生しました。
司町の名前は、神田神社の平田盛胤宮司(ひらたもりたねぐうじ)の命名によるもので、「司」が「者の頭領なれば、未来永劫栄ゆること疑いなし」という意味をもつことから名付けられました。
昭和二十二年(1947年)、神田区と麹町(こうじまち)区が合併して千代田区が成立したときに神田司町一丁目となり、さらに昭和四十一年(1966年)に住居表示の実施により内神田一丁目(うちかんだいっちょうめ)の一部と内神田二丁目(うちかんだにちょうめ)の一部となり、現在に至っています。
町名は「内神田」に変わりましたが、住民組織である町会では「司」の名前を引き継ぎ、「司町一丁目町会(つかさちょういっちょうめちょうかい)」として存続しています。いまではオフィスビルが多くなりましたが、人情味あふれる楽しい町会であることに変わりはありません。

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地域振興部コミュニティ総務課コミュニティ係

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